広島発の総合スーパー「ゆめタウン」。創業者の山西義政氏は、96歳の今でも約200ある全店舗を回っている。そのとき店舗のスタッフにいつも同じ質問をするのだという。山西氏の狙いとは――。

※本稿は、『ゆめタウンの男 戦後ヤミ市から生まれたスーパーが年商七〇〇〇億円になるまで』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。

広島市の繁華街で再会した「中村さん」

広島駅前の露天商を皮切りに、衣類卸問屋に転じ、さらに衣料ブランド「ポプラ」を立ち上げた私は、次には小売を始めたいと考えるようになっていました。

撮影=プレジデント社書籍編集部

といっても、昔ながらの小売店ではなく、当時まったく新しい業態としてアメリカから上陸しつつあった、セルフ型のスーパーマーケットでした。アメリカではスーパーマーケットがすでに隆盛を極めつつあり、「これからは小売の時代。しかもセルフ型のスーパーマーケットが主流になる」との思いを抱くようになっていたのです。

そんなときに広島市堀川町の新天地を歩いていたら、大きな卓球場に出くわしました。そのあたりは繁華街です。人通りも多い。私は卓球もボウリングもしないので、「こんなところに卓球場開いて儲かるんかな」と覗いてみたのです。

すると、中に見たことのある男性がいます。かつて店舗を探していた私に、自分が経営していた銭湯を売ってくれた中村さんでした。

卓球場の跡地に「いづみ」1号店オープン

「中村さん、この場所で卓球場なんてやっとるのはもったいないですよ」
「もったいないって、他にやることもないしな。卓球場なら手もかからんから、ええんじゃ」
「いや、これからはスーパーマーケットですわ。ここは場所もいいから、中村さん、スーパーをやりんさい」
「いやあ、わしは人を使うのが苦手なんじゃ。そんなにいい商売なら、あんたがやれや」
「そんなこと言っても、わしは土地も持ってませんし、今は問屋で手いっぱいですわ」
「ほなら、この土地を無条件で貸したる。担保もいらない。やってみな」

一瞬、言葉に詰まりました。しかし、私はすぐにこう答えていたのです。

「ほんじゃあ、やってみようかね」

こうして1961(昭和36)年11月、中国・四国地方で初の総合スーパーマーケット「いづみ」1号店が誕生したのです。

「セルフサービスで楽しいお買物!」と謳ったいづみ1号店は、まずまず幸先のいいスタートを切ることができました。オープン当日、入場制限をしなければならないほど多くのお客さんで賑わい、翌日の新聞にお詫びの広告を掲載したほどでした。