「監督の指示は絶対」となるのは明らか

これが、教科書に収録された「星野君の二塁打」である。監督のサインを守らなかった星野君に対し、勝利に貢献したという評価は与えられず、逆に出場禁止という罰を与えられてしまう。

ある教科書を見ると、この「星野君の二塁打」というタイトルの横には「チームの一員として」というキャッチが添えられており、さらに上部には「よりよい学校生活、集団生活の充実」という表記がある。

これは、学習指導要領に掲げられた小学校高学年用の項目名そのもので、その指導内容である「先生や学校の人々を敬愛し、みんなで協力し合ってよりよい学級や学校をつくるとともに、様々な集団の中での自分の役割を自覚して集団生活の充実に努めること」を教えるために、この「星野君の二塁打」の話を入れましたよ、ということをわざわざ念押ししているのだ。

これを前提に子どもたちに議論させたならば、どういうことが起きるか。「星野君は間違った。悪いことをした」「監督の指示は絶対。それを守らなかった星野君が悪い」という意見が圧倒的に多くなるのは明らかだ。

監督の指示に忠実だった日大アメフト部

しかし、それは一方で「結論の押し付け」でもある。たとえ監督の指示が明らかに間違っていると思ったときでも、100%指示を守らなければいけないのか。あるいは、たとえ指示に反した行動を取ったとしても、それによってペナルティを与えられるべきなのか。

『危ない「道徳教科書」』(寺脇 研著・宝島社刊)

そうした議論はあっていいはずだが、この「星野君の二塁打」の話からはそうした議論の発展が生まれにくく、「集団生活を乱さないことは個人の考えより重要」という結論しか見えてこない。

2018年、日本大学アメフト部の宮川泰介選手が、監督に指示されたとおり、相手選手に悪質なタックルを仕掛け、大きく報道された一件があった。タックルで相手を潰しケガをさせなければ、自分は試合に出させてもらえないという葛藤のなかで、宮川選手は相手に反則タックルを仕掛けた。

果たして、監督の指示を忠実に守った宮川選手はいけないことをしたのか、もしそうだとしたら何がいけなかったのか、自分だったら監督の指示を拒否することはできるか――この「宮川君のタックル」の実話のほうが、「星野君の二塁打」よりよほど、「集団の中での自分の役割」を考え議論する材料に適しているように思う。