今年のノーベル文学賞に、英国のカズオ・イシグロさんが選ばれたことは、うれしいことだった。

カズオ・イシグロ氏は、5歳のときに父の赴任に伴い英国に移住。(AFLO=写真)

カズオ・イシグロさんが、「石黒一雄」として長崎に生まれ、幼少期にご家族とともに英国に移住した、という日本との縁だけではない。『日の名残り』や『わたしを離さないで』、『忘れられた巨人』などの作品を、ずっと以前から慣れ親しんで読んできた、そんな作家さんが受賞されたことがうれしかったのである。

英国最高の文学賞である「ブッカー賞」を受け、アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソンなどが出演して映画化もされた『日の名残り』は、最も親しまれている作品の1つと言っていいだろう。

『日の名残り』の主人公は、ある貴族に長年仕えた老執事で、今は別の主人の下にいる。老執事の往時の回想が、作品の根幹をなしている。

かつて執事が仕えたのは、英国の貴族の中の貴族、と言うべき名門の主人。広大な邸宅で務める日々のなかで、執事は、見事な職業上の倫理観を見せていく。

同じ屋敷には、密かに心惹かれ合う女性がいた。しかし、そのような私情を仕事場に持ち込んではいけないと、決して自分の心を開こうとしない。冷たい仕打ちに失望して、女性はほかの男性に嫁いでいってしまう。

仕えている主人は立派な貴族であるが、ドイツとの関係において、後から見れば間違いだったと思われる判断ミスを犯してしまう。

有力者たちを集めた、秘密裏の交渉。自分の仕えている主人の屋敷でそんな会合が行われていることを知りながら、執事は、あくまでも自分の分を守り、職務に忠実であろうとする。そこに見られる驚くべき自己抑制の描写が、『日の名残り』の大きな魅力となっている。