集団的自衛権はなぜ違憲だと言えるのか。それは自衛権を「例外」として認めるという独特の考え方の帰結である。憲法9条が全ての武力行使を全面的に禁止していると考える東大法学部系の憲法学の伝統では、自衛権は後から留保をかける程度のものでしかない。留保が、国連憲章51条(*3)そのままだとは言いたくないらしいので、個別的自衛権と集団的自衛権との間に超えられない一線があるといった、「ガラパゴス」自衛権論を掲げる。

個別的自衛権と総称される、憲法学者が例外として認める自衛権とは、いったいどんなものなのか。拙著『集団的自衛権の思想史』で論じたが、例外の設定にあたっては、プロセイン憲法を模倣して大日本帝国憲法が制定された際に、ドイツ留学者によって編成された沿革を持つ東大法学部の特徴が発揮される。ドイツ国法学の伝統では、国家は単に法人格を持っているだけではなく、実際に意思する実体であるかのように語られる。ヘーゲル流のドイツ観念論の強い影響下で、有機体的な国家観が、標準理論だとされる。

国際政治学者や国際法学者が、排するべき危険な邪説として警戒する「国内的類推(domestic analogy)」の純粋形態である。つまり国家を大真面目に、自然人と比較し得る人格を持ったものだと仮定する。その仮定を基盤にして、法体系を構築するのが、ドイツ観念論的な特有の発想法である。

自衛権をめぐる奇妙な「物語」

国家を生きる実体だと考えるから、憲法典に書かれていないが、国家が自分自身を守る自然権を持っていることは認められる、といった観念論的な発想が生まれる。国家が自分自身を守るという自衛権は、自然人が自分自身を守る正当防衛と、完全な相応関係にある、などとされてしまう。憲法典には書かれていないが、国家が自分自身の存在に内在する自然権を基本権として行使することは、憲法典も例外として認めるはずだ、というのが、自衛権を合憲とする憲法学者の論理構成である。

この発想を絶対視する学会にだけ属していると、「単なるドイツ観念論の発想」が、あたかも不変の絶対法則であるかのようなものとなる。「個別的自衛権は国家が自分自身を守る自然権的な基本権の行使と言える」「集団的自衛権は国家の自然権的な権利ではない」、といった、フィクションにフィクションを積み重ねるかのような物語が構築されていく。

石川健治・東京大学法学部教授によれば、国連憲章における集団的自衛権は、政治的に「自衛権」の規定に「潜り込ませ」られたに過ぎず、「国際法上の自衛権概念の方が異物を抱えているのであって、それが日本国憲法に照らして炙りだされた、というだけ」なのだという(*4)。つまり憲法学者の自衛権の理解によって国際法の自衛権の理解を制限すべきことを示唆するのである 。