挑戦し続ける年寄りでいたい

コント55号が売れて、5年ほどたち、30歳になったのをきっかけに、ボクは1年間、これまでの活動を反省することにしました。有名になりたいっていう夢は実現したけれども、期待していたほど面白くはなく、ここで修正しないとまずいと思い、コント55号の活動も休止しました。

そして、テレビで誰もやっていないことにも挑戦したいと思っていたら、ボクが何よりやりたくないと思っていた番組の司会を頼まれた。その一つが、71年から放映された『スター誕生!』です。ここでは、男女2人組の司会というスタイルを持ち込み、以後、これが主流になっていったんだから、これも一つの運なのでしょうね。

振り返ってみると、20代はとにかく舞台で飛んだり跳ねたり、「身体」を使ってコントをしていました。それで観客に受けたんですけどね。なぜ、身体を動かすのがいいかというと、脳も活性化して、何かいいことに気づくからです。

そして、感性が備わってきた30代からは、徐々に「頭」を使い始めました。ボクは、この時代にテレビに関われたことはラッキーだったと思っています。だから、この年代は考えながら走ればいいんじゃないかな……。

また、40代からは「目」を使いました。考えること、舞台やテレビを数多くこなしてくることで、「観察力」が身に付いてきます。40代で、ボクが軒並み視聴率30%を超える番組を残せたのも、この時期に見つけたタレントさんたちが活躍してくれたおかげでした。40代が目なら次の50代は「耳」でしょう。それで「野球が存続の危機にある」と聞きつけて、社会人野球の新球団も作りました。

そして、いま70代になってわかったのは、行く手が2つに分かれていることです。一方の道は人生でそれなりに成功し、そのご褒美に別荘を建てて、のんびりと余生を過ごす「老人」。片方は、自分がじいさんだとは思わない「年寄り」なんです。

ボクは老人にはなりません。やっぱり年寄りです。だって、こっちは「年が寄って」きたら、身をかわせばいいから。それでボクはいま大学に通っているわけです。80代になっても、90代になっても、生きている限り挑戦は続けますよ。チャレンジのない人生なんて、全然面白くないからね。

萩本欽一(はぎもと・きんいち)
1941年、東京都生まれ。60年代からコメディアンとしての活動を始める。坂上二郎とコンビを組んだ「コント55号」でブレイク。『欽ドン!良い子悪い子普通の子』『欽ちゃんのどこまでやるの!』など多数のテレビ番組で高視聴率を獲得し、「視聴率100%男」との異名を取る。2015年、駒澤大学の社会人特別入試枠で合格し、仏教学部に在籍。
(構成=岡村繁雄 撮影=高橋健太郎)
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