抗がん剤、病院選び、がんの正体……がん患者さんとご家族が“がん”と“がん治療”の全体像について基本的知識を得る機会は多くありません。本連載では、父と妻を“がん”で失った専門医が、医師そして家族の立場から、がん治療の基本を説きます。

がんになってもあわてる必要はない

日本人にとって、がんはとても気になる病気です。

健康管理に気をつけている人は定期的にがん検診受診を欠かさないでしょうし、がん検診を義務づけている職場もあります。結果が出るまでの数週間は、なんとなく落ち着かない、という人も多いでしょう。

またテレビや雑誌を見ても「がん予防に効く食品」や「がんにならない生活習慣」など各種の情報が氾濫しています。有名人ががんになったことを公表すれば、それだけでニュースになります。これも私たちのがんという病気への関心の高さを示すものでしょう。

しかし関心が高いわりには、がんについて正しい知識を持つ人は少ないのではないでしょうか。

『がんを告知されたら読む本』(谷川啓司著・プレジデント社)

私は、がんを専門分野としている医師ですので、がんをテーマにした講演を頼まれることがあります。

あるとき私は講演で、次のようなことを話しました。

《がんと診断されたからといって、すぐに死んでしまうわけではない。あわてなくていい。痩せこけたりするのは長いがんの過程の最後の最後であり、苦しんだり、髪が抜けたりするのは、ほとんどが治療の影響である。
がんそのものが痛みや苦しみを生じさせることは少ない。
私たちの身体には免疫という病気と戦うしくみが備わっており、がんの治療においても、この免疫の力を上げることがとても大事である。
がんを完治させるのは難しいけれど、治療によってその人本来の寿命に近づくことができれば、それは天寿をまっとうしたと言えるのではないか。》

これらは私が常日頃から主張していることで、講演ではこれと同じことをわかりやすくお話ししたつもりでした。

講演会の後は懇親会が開かれ、私はその席で隣り合わせた方とご挨拶し、名刺を交換しました。その方は、「今日はよいお話を聞きました。がんになってもあわてる必要はないのですね」と講演の感想を述べてくれました。

ところがその1週間後。その方から電話がかかってきました。なんだかひどく動揺しています。

「先生、がんと診断されてしまいました! 私、いったい、どうしたらいいですか?」

あれほど「がんになってもあわてることはないんですね」と言っていたのに……。

人間は、いざ自分ががんになると、たった1週間前に聞いたことでも忘れてしまうのだと、よくわかった出来事でした。