「心臓外科医になって父を助けたい」

順天堂大学医学部心臓血管外科教授 天野 篤

受験シーズン真っ只中、結果に一喜一憂している親子もいるのではないでしょうか。私が日本大学医学部に入学するまでに3浪したのをご存知の方は多いかもしれません。最近は浪人する人自体も減っていますが、私自身は、3浪しなかったら今の自分はなかったと考えています。高校2年生の時に父が心臓弁膜症と診断され、「心臓外科医になって父を助けたい」と思っていたので、医師にはなっていたかもしれませんが、天皇陛下の執刀医を任されるような心臓外科医にはなっていなかったと思うのです。

3浪したために「ノンエリート」と書かれることもあるのですが、実は、高校1年生までの私はエリート街道まっしぐらでした。小学校の頃から「神童」と呼ばれることもあるくらい成績が良かった私は、埼玉大学教育学部付属中学校を経て、それほど難なく埼玉県立浦和高校に入学しました。浦和高校は、私が在学していたに頃は毎年80人前後、昨年度も33人が東京大学に合格した全国でも有数の進学校です。医療界や財界、官僚には同窓生が大勢います。

高校に入学して最初の試験では、私の成績は410人中60番台でした。そこまでは良かったのですが、「勉強なんてやらなくてもできる」と高をくくり、麻雀、パチンコ、スキーに熱中してしまった私は、将来のことを考えて勉強第一で頑張っている同級生にどんどん抜かされ、あっという間に300番台に落ちて行ったのです。それでも、「本気を出せば挽回できる」「努力しないから点数が取れないだけ」と楽観し、授業をさぼって賭け麻雀に没頭する日々。試験直前に勉強しても、好きだった数学、物理以外は点数が取れなくなっていたのですが、それでもあまり深刻にはとらえず、夜は、土居まさるの「セイ! ヤング」、「オールナイトニッポン」などラジオの深夜放送に熱中し、学校では授業中に寝ていました。

大学の入学試験が近づいてもなかなかエンジンはかからず、麻雀、そしてパチンコをしていました。自慢できることではないかもしれませんが、浪人2年目となった頃には、パチンコでは“プロ級”の腕前になっていました。高校時代は手でレバーを引くタイプのパチンコ台で、手先の器用さというかコツが必要でした。結果として今振り返ると、その腕前は手術の技術にも生かされていると実感しています。