不必要な人間は、この世にひとりもいない

1983年10月末から約1カ月をかけ、曽野綾子さんはサハラを縦断。パリを出発して象牙海岸まで走行距離8000kmの旅だ。記事中の写真はそのときのもの。
(写真)アルジェリアで殉教したシャルル・ド・フーコー神父の土地を訪ねるのが旅の目的のひとつ。神父の隠棲所を守る修道士と。

あの人は間違っているから自分が変えてやろうなどとは考えないことです。たとえその人の態度や行動が気に入らなくても、その人にはそうする理由があるのでしょうから。

もしその人がどうしても好きになれなければ、嫌いなままでかまいませんから、好きな人にするのと同じように接してください。聖書にある「あなたの敵を愛しなさい」というのは、そういうふうに解釈すればいいのです。

いわゆる草食系と呼ばれる最近の若者の扱いには苦労するという話もよくききます。たしかに20代より、経験を積んだ30代や40代のほうが、いろいろな知識やスキルも備わっている分、会社のなかでできることはたくさんあるでしょう。でも、流行のファッションや音楽、パソコンの扱い方などは、おそらく若者のほうがよく知っているんですね。

私自身、若い人と一緒に何かをすると、しばしば「なんでこんなこともできないの」という気持ちにさせられることはあります。でも、それで腹を立てたりはしません。彼らにできて私にはできないことも、実は同じくらいあるはずだからです。一歩引いて見れば、人間の能力なんてみんな似たり寄ったりです。

神父の墓はエルゴレアのオアシスにある。

だから、部下をもったら、できないところには目をつぶり、彼は何ができるかを探すのです。「ないものを数えず、あるものを数えよ」、私たち信仰者はこういいます。そして、できることをやってもらうのです。

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(コリントの信徒への手紙(1)12章21節)

一見何の取り柄もないような人であっても、必ず何かしら役に立つ部分はあります。聖パウロが、人間の体の各部分に喩えて説明したように、この世に不必要な人間などひとりもいないのです。

よく修道院では、真の聖人は洗濯室にいるといわれます。神学をきちんと学んだわけでもなく、ラテン語やギリシャ語なんてアタマが悪くて覚えられない。修道院の中でいつの間にか洗濯係になっている。そういう人のお祈りが得てしていちばん効くのだというから、おもしろいものです。

それから、部下に何か命じるときは、ただ「これをやれ」というだけではなく、その能力や才能をほめ、感謝しながら使うという気持ちを忘れないこと。とくに感謝というのは人間関係の基本だと私は思っています。これが失われるとそこかしこから不満が噴出して、物事は絶対にいい方向には進みません。