FV_転職ロマン(4)

勝利に徹する姿勢。そして、ジーコ・スピリット

筆者は愛知県蒲郡市で10年以上暮らしている。東京にいた頃には気づかなかったが、地方においては魅力ある企業の存在感がとても大きい。雇用や税収が増えるだけでなく、活力ある住民の確保にもつながる。

例えば、蒲郡市には竹島水族館という人気施設があり、そこで働くために全国各地から優秀な若者が移住してくる。他の水族館と比べて給与や待遇が良いわけではない。顧客満足のために何でもやる姿勢が一部の水族館関係者や学生から熱狂的に支持されているのだ。どんな移住促進策よりも効果的だと住民として感じている。

東京の調布市で生まれ育ち、大学と大学院は京都で過ごした石井純哉さん(30歳)が2024年に株式会社鹿島アントラーズ・エフ・シー(以下、アントラーズ)に転職した理由も、「アントラーズの勝利に貢献したい」の一念だった。現在、東京から高速バスで2時間半かかる茨城県鹿嶋市の地で一人暮らしをしながらアントラーズで前のめりに働いている。

調布といえばFC東京の本拠地・味の素スタジアムがある。しかし、石井さんは子どもの頃からアントラーズ一筋なのだ。

「僕が中学生の頃、アントラーズはJリーグで3連覇を成し遂げていました。チームもファンも勝利に徹する考えが浸透しているところが好きですね。例えば、僅差で勝っているときの後半戦の終盤では、相手チーム側でボールをキープして時間稼ぎをするのはプロとして当然。軽率なプレーをしてボールを奪われたら、ファンからブーイングを浴びかねません。観ていて楽しい試合も大事だと思いますが、勝利に勝るものはないのです」

おとなしそうな風貌なのに、アントラーズの話を振ると急に笑顔になって熱っぽく話し始める石井さん。自分自身は運動神経が良いほうでなく、中学生時代のサッカー部も弱小だったと振り返るが、京都大学を受験する際も新卒入社のときもアントラーズから学んだものが生きたと断言する。

「合格という勝利のために集中して勉強できました。新卒で入社したウェブマーケティングのベンチャー企業は『お客さまに誠実でいよう』という方針を掲げていて、アントラーズを形作っているジーコスピリット(献身・誠実・尊重)と重なりました。『承知の上です!』という気持ちで入社しました」

石井さん1
鹿島アントラーズの石井純哉さん。マーケティングの経験を生かし、現在はサポーターの集客・イベント施策に携わる。

新卒から入社3年目で十数人の部下を持つマネージャーに

社会に出る前に石井さんは京都大学大学院での2年間を過ごしている。社会学を専攻し、修士論文のテーマは地下アイドル研究。担当教授から高い評価を受けて修士号を手にしたが、「自分は、地下アイドル研究を生涯のテーマにはできない。文系の研究者の道は厳しいし、社会学を研究しているのにそもそも社会人経験がない」と客観的な判断をして民間企業への就職を決めた。石井さん、偏っているようでバランス感覚のある人物である。

新卒入社の会社には思い入れがあったわけではない。「文系卒の友人知人はIT系にいくことが多い。つぶしもききそう」という消極的な理由で選んだ。なお、選んだというより「選ばれた」というほうが正確かもしれない。修士論文の執筆に集中したかった石井さんは、スカウトのメッセージが来た会社の面接を受けて就職先を検討したという。ほとんど逆面接だ。少子化時代の優秀層はそれだけ売り手市場なのだろう。

「いわゆる大企業を選ばなかったのは、僕は大きな組織で厳密なルールに沿って動くことが苦手だからです。官僚や大企業社員になるつもりはなかったので志望大学を東大ではなく京大にしました」

大学受験時には東大も射程に入っていたことを気負いなく言うあたりに石井さんの自信を感じる。実際、入社後は社内でも花形のデータ分析の部署に配属され、「顧客の課題解決をデータを使って提案する」データアナリストとして活躍した。

「ベンチャー企業は人の入れ替わりが激しいので、上司もその上の役員も退職してしまい、入社3年目で僕がマネージャーになりました。十数人の部署のトップです。会社が掲げる大きな目標を達成するためにより広い視野で考えられるようになり、やりがいがありました」

アントラーズじゃなかったら転職しなかった

実はこの3年間も石井さんは転職活動をしていた。転職サイトに登録して求人を常に見つつ、自分の市場価値を確認。

「大学などの同期でも同じ会社で3年以上働いている人はほとんどいません。転職活動をすることに抵抗感はありませんでした」

マネージャーになってからは腰が据わった石井さん。勤務先は大企業の傘下に入ることになり、「会社として成果を出してグループ内で存在感を出せるか否か」という大事な時期にさしかかっていた。石井さんもやる気でいたが、たまたまアントラーズの求人情報を見てしまった。

それは転職サイトの情報ですらなかった。X(旧Twitter)の投稿に過ぎない。ファンなので当然公式Xをフォローして見ていたところ、「ビジネスアナリスト」の募集が出ていたのだ。アントラーズが持つ顧客データを分析し、有効活用する役割である。

「応募しなくても後悔はしないかもしれません。でも、応募すらしなかったことが自分の中でずっと残ってしまうでしょう。採用されるとは思っていませんでしたが、少しでもアントラーズのために自分の力を使えるならばとチャレンジしました」

大学受験や他の就職活動ではふてぶてしいまでの自信を示していた石井さんとは正反対の謙虚さである。アントラーズは石井さんにとって唯一無二の存在なのだ。

「僕は熱しやすく冷めやすい性格です。地下アイドル研究、音楽を聴くこと、ラーメン屋巡り。どれも今は続いていません。でも、アントラーズだけは別。中学校時代からずっと試合を見続けて、スタジアムの熱気と選手の献身に感動し続けてきました。社会人になってからは、アントラーズというフットボールクラブのビジネスにも興味を持っていたんです」

退職の意向を告げた日の夜、社長から呼び出されて引き留めてもらえたと石井さんは明かす。「(転職先が)アントラーズじゃなかったら辞めていなかった」と告げ、快く送り出してもらった。

石井さん2
転職を機に茨城県鹿嶋市へ移り住んだ石井さん。暮らしの風景はガラリと変わった。転職が決まってまず着手したのは、運転免許証を取得するために教習所に通うことだった。

能力と労働時間を好きなチームのために使える幸せ

しかし、アントラーズへの転職活動中、懸念があった。ビジネスアナリストは契約社員としての雇用だったのだ。ここで石井さんは現実的な判断をする。

「非正規雇用では先行きが不安でした。クラブの面接担当者にそう伝えたところ、他のポジションでの正社員採用があると教えてもらいました」

それが同じプロモーションでも集客・イベントを担当するポジション。スタジアムへの来場者を増やすためのデータ分析では今までの経験とスキルが役立つ。しかし、さまざまな顧客サービスイベントの企画・運営に関しては素人だった。

「例えば、ファッション誌とアントラーズの選手とのコラボ企画がありました。スタジアムでもそれと連動して、等身大のパネルを設置したり衣装の展示をしたり。衣装を着せるマネキンはどうするのかといった細かなことまで僕の担当です。未経験でも挑戦してほしい、とクラブから伝えられました」

時には担当するイベントでアルバイトスタッフの弁当手配までやっているという石井さん。どんな仕事もアントラーズの勝利につながっていると思えば苦ではない。

「やりがい搾取のように思われるかもしれませんが、そんなことはありません。労働する時間をアントラーズのために使えるのは幸せです。親会社のメルカリをはじめ、いろんな分野と地域からアントラーズに熱量がある人が集まっている職場は刺激的でもあります。ちなみに、年収は前職より少しアップしました。アントラーズは福利厚生もしっかりしています」

大義のために献身するとき、未知の能力が開花する

転職は自分の市場価値を上げていくことだといわれがちだ。しかし、その志向にはロマンがない。労働に値段がつく相対評価の世界ともいえる。

石井さんの場合は違う。「アントラーズの勝利への貢献」が最優先であり、自分のキャリア形成などは意識から抜け落ちつつある。かけがえのない絶対評価の世界なのだ。

「自分の職業人生を自分のものにするためにはアントラーズで働く以外はなかった、と今は感じています」

今後は、アントラーズが実施しているさまざまな施策を「散発的なものではなく、外側からも内側からもつなげていく」ことに石井さんは関心を持っている。顧客から見て一貫したストーリーがあり、内部のスタッフも「この施策をやったから次はこれ」と明確な流れをつかめることが理想だ。

「今は日本中が推し活で沸いています。アントラーズにも特定の選手推しのファンがいて、クラブとしても大切にしなければなりません。上司からは『地下アイドル研究の知見を生かしてほしい』といってもらっています。アントラーズが積み上げてきた歴史と推し活とをどのようにクロスさせていくかを思案中です」

自分のキャリアや収入だけを気にしていると、「余計なこと」には手を出さない。結果として職業人として小さくまとまっていく。一方で、何かの大義や愛する対象のために献身するとき、悪戦苦闘のなかで未知の能力が爆発的に開花したりする。鹿嶋の地で迷いなく精を出す石井さんと向き合い、そんなことを感じた。

石井さん3
クラブマスコットの「しかお」とサムズアップする石井さん。鹿島アントラーズは念願だった2025シーズンのJ1リーグ制覇を決めた(9年ぶり9回目)。

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(撮影=大村洋介)