※本稿は『NHK大河ドラマ 歴史ハンドブック 光る君へ〈紫式部とその時代〉』(NHK出版)の一部を再編集したものです。
平安貴族でも『源氏物語』全54帖を読破した人は少数派?
【倉本】紫式部については、誤解されている部分があると思います。『源氏物語』は、その発表当時からかなり絶賛され、ものすごく多くの人に読まれていたというイメージだと思いますが、実はそれほどではなかったのではないかと思います。今と違って出版業も本屋さんも図書館もありませんから、読めるのは写本を見られる人だけです。
しかも、全巻揃って最初から読めたという人も少なかったでしょう。たまたま手に入った巻だけを読んでいた人が大半のはずです。『源氏物語』は、通して最後まで読めば、第一部で光源氏が栄華を極め、第二部で光源氏も紫の上も苫悩して死んでいく。そして第三部で源氏の死後、浮舟らが浄土信仰によって源氏の罪を購うという構成になっていることがわかります。
【澤田】全体の構成はそうですね。
【倉本】しかし、こうした壮大なストーリーを理解していた人は、おそらく当時はほとんどいなかった。それほどたくさん読まれていたわけではないし、現代のような正当な評価もされていなかったと思います。それと、紫式部本人は『源氏物語』の作者として評価されていた時期もありますが、その後、彰子の側近として活動していた時期の方が実は長いのです。
『小右記』には、紫式部のことを指していると思われる女房がしばしば登場するので、それがわかるのです。ですから、紫式部は『源氏物語』の作者というよりは、彰子の最側近の女房という評価の方が、同時代には強かったのではないかと、歴史学者としては思います。澤田さんは作家の先輩である紫式部について、どう思われますか。
夫を亡くし中宮彰子に仕えた紫式部のメリハリある人生
【澤田】同時代の他の女性に比べると、紫式部はかなり生涯が詳しくわかっている方だとまず思います。清少納言や赤染衛門などと比べても、人生を追いやすい。それと、その人生はかなりメリハリがあるなと感じます。
漢学者の娘として生まれ、早くに母親を亡くし、父親に学問を仕込まれ、父親とともに越前に移住。帰ってきて結婚、しばらくして夫を亡くし、宮中に出仕するという、起伏に富んだ人生です。これまで多くの作家が彼女をテーマとして作品を書いてきたのも理解できます。
一方で、あくまでも小説のモチーフとして見ると、その人生は随所で盛り上がるけれど、盛り上がりきらないという印象です。紫式部を描いた作品も、どうしても一般的な紫式部のイメージに引きずられてしまい、そこから脱却しきれていないような気がします。
【倉本】それはなぜでしょう。
【澤田】『源氏物語』が大長編で、全部を原文で読んだ人は意外に少ない点がまず大きな理由ではと感じます。一般に『源氏物語』は、原文を読まぬまま、世の中に流布している固定化されたあの作品のイメージで語られることが多いです。それを打ち砕くのは並大抵の苦労ではなく、どうしてもその『源氏物語』イメージに乗っからざるをえない。同時に紫式部像もその延長線上で語らざるをえないのではと感じます。そう考えると新たな紫式部像を描くためには、まず『源氏物語』にいかに向き合うかという姿勢が問われることになりますね。
日本人作家が苦手な大長編を千年前に完成させた紫式部のすごさ
【倉本】日本の作家は、夏目漱石を除いて長編を書くのが苦手ではありませんか。
【澤田】そう思います。
【倉本】『源氏物語』という、あれほどの長編を書いたということは、作家としてどう思われますか。
【澤田】よく息切れせずに書いたな、という印象です。大変長い作品なので源氏を取り巻く人物がどんどん代わっていきます。そして、源氏の視点ではありますが、周囲の女性の対比が常に意識されている。だから、あれほどの長編が実現したのだと思います。それと、物語の間に源氏が都落ちをする「須磨編」を挟んだおかげで、物語がダラダラとせずにすんだ気がします。さらに言うと、『源氏物語』の特徴の一つは、「世代の物語」だということだと思います。源氏と取り巻く女性との関係が物語の横糸だとすると、親子の関係が縦糸になっている。それが意図的なものなのかどうかはわかりませんが。
源氏の子をめぐる予言から考え、序盤で構想は決まっていた?
【倉本】『源氏物語』の作中には源氏をめぐる三つの予言が出てきて、そのなかで「帝・皇后・太政大臣となる三人の子をもうける」というくだりがありますので、かなり早い時期に全体の骨格はできていたのだと思います。
実は今朝方、起きる直前に思いついたことがあります。『源氏物語』は、藤原道長が彰子への一条天皇の歓心を引くために紫式部に書かせたという話があり、私もそう思っています。だから道長は、当時は高価だった紙を紫式部に与えたとも思っていますが、道長の要請を受けて書かれたのは『源氏物語』の第一部までだったのではないか。
都落ちをして明石から京に帰ってきた後の光源氏は、どう考えても道長の投影だと思いますし、藤壺中宮は三条院詮子の投影でしょう。寛弘5年(1008)に彰子は出産のために身を寄せていた父道長の土御門邸から内裏に帰りますが、そのときに紫式部は『源氏物語』を清書しています。道長の影響下で書かれたのは、おそらくそこまでだろうという気がします。
つまり、光源氏が苦悩に満ちた生涯を送り、紫の上とともにその苦悩が解決することなく死んでいくという第二部が、道長のパックアップによって書かれたとは思えないのです。
【澤田】なるほど、それは大変面白いです。
第二部以降、光源氏が苦悩する展開は道長と決別してから書いた?
【倉本】したがって、道長との関係は第一部で終わっていて、「若菜」から始まる第二部は、むしろ道長と決別した彰子との関係が大きく影響しているのではないか。もちろん、第三部の宇治の姫君(浮舟)が出家したり亡くなったりする物語は、晩年の紫式部が心を寄せた浄土信仰に基づいているわけです。第一部は、光源氏が関係した女性をみな六条院に住まわせて、皆幸せになったという大団円で終わりますが、そこまでを道長に献上した。第二部以降の光源氏の苦悩の満ちた物語を構想したのは、そのあとではないかと思うのです。
紫式部は道長よりも長生きし、第三部まで書き上げたか
【澤田】そうすると、第二部以降の執筆時期はだいぶ後ろに下がるとお考えですか。
【倉本】そうですね。長和3年(1014)に紫式部が亡くなったという説はまったく成り立たず、道長の死後も生きていたと私は思っています。だから、紫式部はかなり後になって『源氏物語』を書きあげたのではないかという気がしています。最初は道長の影響を受けて書き始めた『源氏物語』ですが、やがて紫式部自身の成長や、式部が仕える彰子の政治的な成長を受けて物語の構想が広がり、第二部以降の苦難の物語を描くにいたった。まだ今朝、思いついたばかりのビジョンですので、煮詰まってはいないのですが。
【澤田】『源氏物語』の構成とリンクさせる考え方は、非常に興味深いですね。
【倉本】私は歴史学の研究者ですので、こうした考えを根拠もなく書くというわけにはいきませんが、フィクションの構想として使うなら、実に魅力的な紫式部像が描けるような気がしています。
【澤田】藤原道長の研究は以前から盛んでしたが、最近、歴史学の世界でも、彰子の研究や、彰子がその後の藤原氏に与えた影響などについて研究が進んできていますよね。そういう切り口から紫式部を描くというのも、面白いかもしれません。
【倉本】いっそのこと、彰子を主人公にする大河ドラマも「あり」ではないでしようか(笑)。