※本稿は、松原正樹『心配ごとや不安が消える 「心の整理術」を1冊にまとめてみた』(アスコム)の一部を再編集したものです。
過去を基準に今をジャッジするのをやめてみる
長く生きていると、「自分はこういう性格」「昔も同じような失敗をした」といったように、物事を自分の経験値で見てしまいがちです。
もちろん、その人が歩んできた過去は、その人を形成している何事にもかえがたい人生の宝だといえますが、過去にしばられてしまうと、今を生きるのが難しくなってしまいます。
「私は優柔不断だから、引っ越し先のご近所付き合いがうまくいかないかも」
「私は根気がないから、次の職場も合わないかも」
などと過去を基準に物事を考えてしまうと、心配ごとのスパイラルに陥ってしまいます。
たとえ過去に同じような失敗をしていたとしても、今現在も同様に失敗する理由はどこにもありません。過去の記憶を捨てるわけにはいきませんが、それに執着してしまうと、心配ごとの種をどんどん増やしてしまうことになります。
「赤ん坊の心」で生きる
ブッダは次のように教えています。
「過ぎ去ったことを追ってはならない。未来のことについて夢のような考えを持ってはならない。みんなそれぞれの時間が決まっている。
だからあっという間に過ぎていくもの、瞬きをする間になくなっているところのもの、つまり現在のみをよく観察するべきだ」
私は毎日を「新しい心」で生きるように心がけています。「新しい心」とは、過去や未来にとらわれない、「赤ん坊の心」といったところでしょうか。
「赤ん坊の心」で生きるのを習慣にしていると、生きていることに自然と感謝の気持ちが湧いてくるから不思議です。朝、目を覚ましたときに、「生きている!」と新鮮な気持ちで毎日を送ることができるのです。
「赤ん坊の心」で見る世界
公園の木々が青々しく茂っているのを見て感動したり、心地よい風に吹かれて生の喜びを感じます。過去というフィルターを通さず世界を見ると、世の中はこんなにも美しいものに溢れているのかと毎日が発見の連続です。
生まれたばかりの赤ん坊が、さまざまなものに興味を抱くのと同じかもしれません。
雨が降って「嫌だな」と思うのは、過去の経験と重ね合わせて今日の雨を見ているからです。雨の日も、風の日も、「日々是好日」。天気に優劣はありません。
今日という一日にいいも悪いもありません。
今日という日を目に映るまま、ありのままに受け止めていれば、毎日が好日となるのです。
「赤ん坊の心」で出会った毎日のルーティンは、あなたの視点を「今」に引きもどし、今をとても新鮮で輝かしい瞬間にしてくれるのです。
常識を疑うと本物の世界が見えてくる
禅語に、「柳は緑 花は紅」というものがあります。「当たり前のことしかいっていないじゃないか!」と思ったあなたは正しいのです。
禅は、目の前の光景を脚色せず、ありのままに見ることを大切にします。「それならば簡単!」と思ったあなた、今度は残念ながら間違いです。
私たちはこれまでの人生で培ってきた、知識や経験という名のレンズを持っています。何かを見るときにも、無意識にこのレンズにピントを合わせ、自分の都合がいいように解釈してしまいがちです。
心配などはそのいい例でしょう。自分が誰かのことを話題にするときにひそひそ話をした経験があるから、ほかの人がひそひそ話をしているのを見て、自分のことをいわれているのではないかと不安になるのです。
メールの文面に必要以上に神経を尖らせるのは、自分がメールを受け取った際、表現が少しそっけないと感じただけで、何か悪いことをしたのではないかと不安になるからです。
柳は緑、花は紅。柳を見たときに、青々とした葉の美しさに目を留める人がどのくらいいるでしょうか。柳は緑と思う前に、レンズが過去にピントを合わせ、「柳といえば、そろそろお化けの季節だな」などと思いはしないでしょうか。
“ありのままに見る”ことは案外難しい
目に映ったままを見るというのは、簡単そうに見えて、案外難しいのです。でも、これができるようになると、森羅万象、世の中にあるすべてのものが先生になります。
花は紅。紅い花が咲いている。その事実こそが真理です。「この紅い花は、もっとも美しい瞬間を見せてくれている。けれど、この美しさも永遠には続かない」。
そんな気づきが、この世が無常であることを教えてくれます。
「花の紅がこうして美しく見えるのは、葉の緑があってこそ」と思えば、この世はそれ一つで完成することはなく、何かの支えがあって、何かの縁があって、成り立っているのだなと考えることができます。
禅の考え方に触れることは、心の受信装置の感度を上げること。そうとらえていただくと、わかりやすいかもしれません。
ありのままに見る。まず、ここにチューニングすることがスタートで、ありのままの姿から真理に気づくことを繰り返すうちに、受信装置の感度はどんどん高まっていきます。
世の中のすべてが先生であり、その教えは受け取る人によって幾通りにも姿を変えます。そう考えれば、この世はいかようにも生きられます。受信装置の感度が高まれば一つのレンズに偏ることなく世の中を見られるようになり、やがて、心配の芽が生まれる機会もうんと減ることでしょう。
苦=感情に執着してしまうこと
心配ごとに限らず、怒り、恐れ、不安、焦り、憎しみ、嫉妬といった感情は、仏教ではすべて苦ととらえます。感情そのものが苦なのではなく、その感情に執着してしまうことこそが苦です。
苦にとらわれているとき、人はトランス状態にあります。日本でトランスという言葉を使うと、極限まで自己を追い込んだり、あるいは、薬などの力を借りて異次元へトリップしたりという印象を持たれるかもしれません。
しかし、トランスを直訳すれば「いつもとは異なる精神状態」という意味で、誰かの発したひと言に心がかき乱されているときも、悲しみに引き込まれて心が閉ざされているときも、どちらもトランス状態ということになります。
苦の感情に心が振り回されトランス状態になるとするならば、裏を返せば、穏やかで安定した状態がスタンダードであるといえます。人間の感情は安定がデフォルトセッティング(基本設定)だからこそ、苦がトランス状態を生むのです。
苦はいつか必ず消えてなくなる
私たちは、苦という感情に心ならず体全体まで、私という人間が丸ごと支配されてしまっていると思ってしまいがちです。しかし、私のイメージでは、体全体は常に安定という薄紙に包まれていて、苦が湧き上がってきたときには、シャボン玉のような球体が顔の斜め前あたりにポッと浮かんでいるだけのこと。
苦に執着すれば、シャボン玉はますます大きく膨らむかもしれませんが、体を覆いつくすことはなく、必ず、いつかは消えてなくなります。あ、そこにいるのね、と感情を受け止めて執着しなければ、早々に消えていきます。
いずれにしても、ずっとそこにあり続けることはなく、いつかは消えてなくなり、デフォルトセッティングである安定だけの状態に戻ります。
その現実をあるがまま受け止めるだけでいい
この世は無常で、一瞬として同じ時間はありませんし、永遠もありません。時は常に移り変わり、人間の心も変化していきます。
電車でも車でも、長いトンネルを走っているときは、途中の景色がほとんど変わらないように思えますが、やがて小さな光が見えて出口へとたどり着きます。
何か心配ごとがあるとき、永遠にその状態が続くのではないか、自分はそこから逃れられないのではないか、このトンネルに出口はないのではないかと思ってしまうかもしれませんが、明けない夜はないように、終わりのない苦もありません。
だから、どれだけ苦に悩まされ、とらわれそうになっても、恐れることはありません。苦の感情がある、今はトランス状態にある。その現実をあるがままに受け止めるだけでいいのです。