※本稿は、アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』(新潮新書)の一部を再編集したものです。
運動はストレス解消の最善策
脳は身体を動かすためにできている。そこを理解しなければ、多くの失敗を重ねることになるだろう。
──マイケル・ガザニガ(カリフォルニア大学神経科学教授)
仕事から帰宅するとへとへとだ。ソファに倒れ込んでしまいたいと全身が叫んでいる。でも心を落ち着かせる一番いい方法は、ランニングシューズを履いて外に出ること。ランニングから戻るとストレスは消えている。さっきよりも気分がよくなって心が落ち着き、集中力も戻っている。もっと早くこのことを知っていればなあ。
46歳の不動産ディベロッパーは、運動することでストレスや不安に対処していると語ってくれた。私はこれまでに同様の話を何百もの違ったバージョンで聞いてきた。診察室で、街中で、手紙やメールで、健康にとって運動がどれほどプラスに働くのかを。しかし、身体を動かすと心が健康になるというのは、ただの始まりに過ぎない。基本的にすべての知的能力が、運動によって機能を向上させるのだ。集中できるようになるし、記憶力が高まり、ストレスにも強くなる。
多くの人がストレスを受け、集中できず、デジタルな情報の洪水に溺れそうになっている今、運動はスマートな対抗策だ。最善の方法と言ってもいいかもしれない。
あふれる情報
毎日2.5京バイトのデータが新しく生まれている。1京というのは1000兆の10倍だ。そんなに大きな数字を理解しろと言われても無理だろうが、こう言い換えればいいだろうか。毎分1億8700万通のメールと3800万通のチャットが送信されている。それと同じ1分間に400時間分の動画がユーチューブにアップされる。さらに、370万件のグーグル検索と50万件のツイートが行われ、出会い系アプリのティンダーでは100万枚の写真が右へ左へとスワイプされている。そのスピードは日に日に速くなるばかりだが、洪水のようなデジタル情報を処理する脳は1万年前から変わっていない。
次々と流れてくる情報を処理するためには、衝動を我慢できなくてはいけない。1分ごとにスマホを手に取りたくなる衝動もそうだし、今読んでいる記事から離れてしまうのにリンクをクリックしたくなる衝動もだ。
ストループテストと呼ばれる心理学のテストがある。衝動を抑える能力を測るテストで、色の名前が別の色の文字で書かれている。例えば、「黄色」という単語が赤い文字で書いてあるのだが、できるだけ早く文字の色を答えなければいけない。色の名前ではなくて。簡単に思えるかもしれないが、制限時間があるとなかなか骨の折れる課題だ(インターネット上にあるのでやってみてほしい)。単純なテストなのに、その結果が各種の衝動を抑える能力を語っている。
衝動を抑えるには運動が効果的
ストループテストを受ける前に20分間運動した大人は、結果がよかった。それもかなりいい結果で、楽に衝動を抑えられている。何度か散歩したりランニングしただけでも効果があったが、いちばんいいのは数カ月間定期的に身体を動かした場合だ。子供でも、運動すると衝動を抑えやすくなり、スウェーデンの学校でもそれを取り入れ始めた。やり方はいろいろあるが、各科目の授業時間が減らないよう、授業開始前に15~20分間、皆で身体を動かすことが多い。この研究成果を実用につなげたい教師や校長、保護者によって熱心な取り組みが行われている。
この取り組みの結果はまだ研究報告という形で発表はされていないが、努力が実を結んだ様子が記事になっている。ヨーテボリ・ポステン紙とスウェーデン公共放送のニュースサイトの記事で、見出しはそれぞれ「心拍数と共に成績がアップ」「授業前に運動、ボーデン市の生徒が成績上昇」だ。身体を動かしたことで子供たちはよく学び、態度も落ちつく。以前よりも集中できるようになり、衝動的な行動が減ったという。ただ、子供や若者の睡眠欲求と体内時計を考えれば、授業前に15~20分運動というのは容易ではない。だから15分より短くても効果はあるのかが気になるところだが、実は効果がある。
たった6分間の運動で驚きの効果
約100人の小学5年生に4週間毎日運動をさせ、実験を始める前と終了してから一連の心理テストを行った。すると、集中力が増しただけでなく、ひとつのことだけに注意を向けるのも上手くなっていた。しかも、情報処理まで速くなった。驚いたのは、ほんの少しの運動でいいという点だ。運動は教室内で行われ、時間は毎日たったの6分間(!)だったのだ。授業中に短い休憩を取って、体操の動画を流した。子供たちはその動きを真似て、筋肉の協調を鍛えた。動きは少しずつ難しくなっていったが、プロサッカーチームや跳び箱チャンピオンとは比較にならない程度だ。1日6分間だと非常に短いので、通常の授業に支障をきたすこともない。
この実験では毎日6分のプログラムを4週間続けたが、たったの1回でも効果はある。子供と若者に〈プリンス・オブ・ペルシャ〉というコンピューターゲームをさせた。難しい謎を解くために集中力を要する場面がいくつも出てくるゲームだ。ゲーム前に運動をすると、ゲームもうまくなった。こちらも長時間の運動が必要だったわけではない。たったの5分走っただけで、いいプレーができたのだ。現代の子供に足りないのは集中力と気をそらされない能力だが、わずか5分身体を動かすだけでそれが改善されたのだ。おもしろいことに、集中力の改善は特にADHD──集中することが非常に困難な症状──の子供に顕著だった。
運動で集中力が増す理由
ティーンや大人の集中力も改善するのだろうか。それも可能だ。300人のティーンエイジャーに1週間万歩計をつけた実験では、よく動いた子ほど集中力が高まった。心拍数が上がる運動だとなおよい。ティーンと大人を対象にした30件ほどの調査をまとめると、そこでも同じ結果が出た。現代の貴重品である集中力に、運動はよい効果をもたらす。また、こんなこともわかった。運動によって、計画を立てたり注目する対象を変えたりする脳の実行機能(executive function)も改善する。なお、ティーンエイジャーの集中力は何度か散歩やランニングをしただけでも効果が現れたが、実行機能への効果は数週間から数カ月の定期的な運動が必要だった。
では、なぜ集中力が増すのか。
答えはおそらく、私たちの先祖が身体をよく動かしていたからだ。狩りをしたり自分が追われたりしたときには、最大限の集中力が必要だ。本当に必要なときにいちばん集中力を発揮できるように、脳は数百万年かけて進化したのだ。追うか追われるかという世界だったのだから。狩猟はたまにしかやらなかったと思われがちだが、現代の狩猟採集民の調査から、1日に2~3時間は猟やその他の労働をしていたことが窺われる。その間、祖先たちは身体を動かしてもいたし、最大限に警戒してもいた。そういう人こそが追っていた獲物を捕えられたし、自分を追いかけてくる猛獣のランチにもならずにすんだのだ。
脳の大部分はサバンナでの日々から変わっていないわけだから、身体を動かすことであなたや私の集中力は高まる。だが今は猟に出たり、猛獣を避けたりするために集中力を発揮する必要はない。教室の椅子にじっと座っている、仕事のプレゼンをするといったことのために必要なのだ。ということは、運動は進化上のライフハックだ。この時代にも可能な限りうまく機能するためには、生物学的な生存メカニズムを活用すればいい。現在、多くの学校で素晴らしい結果が出ているように。