東京の街に憧れ、ファッション誌に夢中になった学生時代
「ESTNATION」というストア名には「東の国」から、という想いが込められている。その原点には「東京発信」という発想があり、大人のための大型専門店として、2001年秋にスタート。オリジナルブランドを中心に、洗練されたファッション・アイテムを展開している。バイヤーとしてスタートして以来、商品開発から販売促進まで幅広く手がけてきた沓間由美子さんは、30歳でこの事業に転身した。
「ファッションが大好きで、チャレンジするならギリギリ30歳までには……と思っていたんです。エストネーションは男性モノも女性モノも両方やっているのがすごく魅力的だったし、洋服だけでなく雑貨やコスメティックも扱っている。大人のライフスタイル全般をカバーできるような品揃えに惹かれました」
ESTNATIONは、サザビーリーグが展開するアパレルの1ブランドである。もともと沓間さんが新卒で入社したのは「株式会社サザビー(現在の、サザビーリーグ)」(以下、サザビー)だった。
名古屋で育ち、中学生の頃から「Hanako」や「anan」などのファッション誌を読んで、東京の街に憧れていた。卒業旅行で初めて渋谷を訪れ、公園通りにあるお目当てのセレクトショップへ。ロエベのバッグなど人気ブランドも揃い、とても手は届かなかったが、ますます夢はふくらんでいった。
26歳でMDへ昇格。大抜擢後、孤軍奮闘の日々が始まる
大学時代、就活でいろいろ調べるなかで目に留まったのが「サザビー」だ。サザビーは、創業者の鈴木陸三氏がヨーロッパで見つけた、まだ日本ではなじみのない使い込まれたユーズド家具の輸入販売から始まり、バッグのオリジナルブランド「SAZABY」の販売を開始。80年代には「Afternoon Tea」をスタートし、生活雑貨と飲食をトータルで展開するライフスタイル提案の先駆けとなった。
沓間さんが憧れていたセレクトショップもサザビーが手がけ、就活した90年代半ばはまさに「SAZABY」のバッグや手帳が大流行していた頃だ。
「私は鈴木 陸三さんのファンでもあったので、ステキな会社だなと思って受けました。本当は洋服の仕事をしたかったのに、気がつくとバッグ事業部に入っていたというか……(笑)」
SAZABYではショップでバッグの販売に携わることに。それでも接客は楽しく、入社3年目には店舗の販促のために新設された職種(SMD)に異動。さらに「マーチャンダイザー(MD)」を任せられたのは26歳のとき。入社したときから希望していた仕事だった。
「就職するときにアパレル業界の職種を調べると、マーチャンダイザーとは商品開発から販売促進までマネジメントする責任者と書いてありました。商品が生まれる前から関わり、お客さまに届く最後まで全部を見られるのはいいなと思っていて」と沓間さん。
当時は会社も大きく変わりゆく時期で、アパレルや服飾雑貨の新ブランドも次々にスタート。一方、バッグの売り上げは伸び悩み、SAZABYでは卸売りの業態をやめて小売りだけにすることが決まる。そのため卸し先の商品を全部引き取り、小売りのスタッフが売ることになった。
毎日のように送り返される商品が倉庫に山積みになり、それを数十店舗の直販店に振り分けていく。ウィメンズを扱うMDは沓間さん一人、あとはメンズのMDと二人で現場をまとめ、在庫商品をひたすら売っていく。明け方まで働くことも当たり前の毎日だった。
「ウィメンズの売り上げが7、8割を占めるので、必死でがんばらなくちゃいけないと。まだ若かったので、私がやっている間にブランドを潰すわけにはいかない、と本気で思っていたんです」
実は当時、沓間さんは仕事でやり辛さを感じることもあったという。会社の方針が変わるなか、30代半ばで主力になっていた先輩が次々に辞めていく。当時、MDは男性ばかりで、20代の沓間さんが抜擢されたものの、女性MDは自分ひとり。今まで優しかった人たちも、何か聞きに行っても教えてはくれない。環境の変化や様々なギャップの中で、必要な答えは自分自身で勉強しながら見つけていくしかなかった。
孤軍奮闘するなかで、店舗の品揃えや企画の方法も思いきって変えていく。自分がお店に立っていた時から不思議に思っていたことがあったからだ。
まだまだ売れる商品が再入荷せず、流れ作業のようにまた違う商品が入ってくる。種類数だけは揃っていても、肝心の人気商品をお客様にご紹介できないジレンマがあったのだ。
商品開発にも女性の感覚を活かしていく。企画の女性と意見交換を積極的に交わしながら作り上げていったのだ。沓間さんが初めて手がけた展示会では「ずいぶん商品が変わったね」「良くなったよ」といろんな人に褒められた。バッグの売り上げもまた勢いよく伸びていった。
念願のファッション業界へ! ハードながら充実した日々
やがてサザビーに入社して9年目のこと。バッグのMDも4年目になる頃、沓間さんはふと立ち止まる。「そういえば、私は洋服をやりたかったんだ……」と。さっそく転職活動を始めた矢先、思いがけない誘いを受けた。
当時、信頼する上司が「ESTNATION」へ参画。それはサザビーリーグの新事業として立ち上げられた組織で、その上司に声をかけられたのだ。沓間さんは30歳にして、念願のアパレルの世界へ飛び込んだ。
「やっぱり楽しかったですね。私はアクセサリーなど服飾雑貨のバイヤーとして入ったので、商品の買い付けがメインの仕事。海外出張が多く、次のシーズンのものを半年先に見られるのは幸せでした」
毎年、ロンドンから始まり、ニューヨーク、ミラノ、パリ、東京でコレクションが開催される。ファッション・ウィークに合わせてセールスの展示会が行われ、バイヤーは仕入れたい商品を選んで、買い付けてくる。華やかに見えても体力的にはハードな仕事だが、毎日が充実していた。
スタッフが仕事のストレスで体調を崩し退職
一方、社内でも管理職になり、チームで働く楽しさを感じていた。前職では先輩とコミュニケーションを取り辛かったこともあり、チームではなるべく部下と話そうと努めていたが、人数が増えるほどに時間を取れなくなっていく。そんな中で苦い出来事があった。
エストネーションの10周年に向けて、新規のプロジェクトが始動。六本木ヒルズ店がリニューアルオープンするにあたり、食器や食品など新しいカテゴリーの商品を増やすことになった。
沓間さんはバイヤー経験の長いスタッフに担当を任せ、自分もサポートして一緒にやっているつもりだった。だが、新規のプロジェクトだけに重圧がかかり、その女性は仕事のストレスで体調を崩してしまう。本人が話してくれたのはもう限界のタイミングで、「病院へ行ってみようと思うんです」と辛そうに言われる。そのときのショックは大きかったと、沓間さんは振り返る。
「元気がないとは感じていたけれど、そこまで追い込まれていることをわかってあげられなかった。何でもっと早く気づいてあげられなかったのか、そうなる前に何の相談もされなかったこともマネージャーとしては失格だと、自分を責めるばかりでした」
そのスタッフは半年後に退職。沓間さんは今でも悔いがあり、残念でならないと洩らす。
この苦い経験を経て、スタッフ全員と話すことをいっそう心がけるようになった。それは自分自身の働き方を見直すなかでも大切なことだったという。
「自分が頑張ればなんでもできる」わけじゃないと知った育休明け
「自分一人でできることは、ものすごく少ないんだなと気づかされたんです」
かつては明け方まで働くことも苦にならず、自分が頑張れば何でもできると思っていた。その自信が大きく揺らいだのは、子どもを持つ身になってからだ。
30代半ばに1人目を出産、その後、双子を授かって、3人の娘を持つ母になった。子育てと仕事を両立するためには一人で抱え込まず、チームのスタッフに任せることを前提に仕事をするようになる。そのためには自分も必要なことはきちんと報告し、積極的に相談するようにしてきた。
チームで良いものを生み出すために、しっかり意見交換できる場づくりを
「そもそも私は声が大きいんですよ(笑)。だから、誰かに『こういう風にしたいんだけど、どうかな?』と相談していると、それを耳にした人たちも会話に入りやすくなる。逆に厳しい意見もズバズバ言うようにしています。ストレートに言わないと本人はわからないし、私が口火を切ると、みんなも意見を言いやすいんですね」
何か提案を受けるときも、良いと思ったらきちんと褒め、何を言いたいのか伝わらなければ、「わからない」とはっきり意志表示する。その場ですぐ判断していかないと物事が進まないことも、沓間さんは身に染みて経験してきたからだ。
「この仕事は結果が明確に出るので、売れるもの、売れないもの、残すもの、を見極めなければならない。そのうえで『じゃあ、何で売れなかったのか』『次はどうしたらいいのか』と一緒に話し合っていく。しっかり意見交換できる場じゃないと、良いものは生み出せないと思うんですね」
今のチームでは18人のスタッフを抱え、安心して任せられる人材が育っている。沓間さんは現場へ出る機会も減ったが、スタッフとの会話から得られる刺激は多いという。
「うちの会社は本当にESTNATIONのお店が大好きな人たちが集まっているので、皆で話しているとすごく盛りあがるんです!」
その輪の中で誰より熱く、明るい笑いもふりまいているのは、きっと沓間さんなのではと思う。