37歳で女性初の執行役員となった山崎さん。部下が育ってくれば自分の仕事をすべて任せて、新しい居場所を探して飛躍する。しかし専門知識が足りなくて壁にぶち当たったことも。そのとき選んだ道は……。
格好良くて丁寧な販売スタッフに感動
ユナイテッドアローズとの出合いはとても印象的でした。高校生のときに、地元の福岡にお店ができ一人のお客さんとして入りました。まだセレクトショップというものがない時代で、一つのブランドではなく、いろんなブランドがあるけど百貨店ではない。内装に手がこんでいて、販売スタッフは格好いいし、高校生の私にも丁寧に接してくれます。そのとき「将来こういうところで働きたいな」と思いました。当社の全国展開がスタートした第一期の店舗でした。
大学に入るため福岡から東京に移り、19歳のとき、原宿のお店に行って「アルバイトさせてください」とお願いしました。それから24年間ずっとこの会社で働いています。
アルバイトをはじめたのは当社が出店して4年目。いまでは考えられないほど、ちっちゃな、ちっちゃなお店でした。売り場とオフィスが一緒になっていて、私はオフィスのスタッフでしたが、接客やレジ打ちもよく手伝いました。社長含めて全員がそうやって働いていた草創期でした。
そしてアルバイトからそのまま新卒で入社。新卒採用の2期目です。配属されたのはマーケティングを担当する販売促進部でしたが、まだまだ小さな会社でしたから何でもやりました。
後輩に勝ち目がないと知ったとき選んだ道
私が入ってからの10年間で会社が店頭公開、二部上場、一部上場と、みるみる大きくなりました。“お店”に入ったつもりだったのが、企業としてのユナイテッドアローズの部分がだんだん問われるようになってきました。最初は店舗のための販促物をつくっていたのが、そのうち求められるものが企業広告に変わっていきました。上場の広告も私が手がけたんですが、上場の意味がわからないままやっていました(笑)。
03年に社長室広告宣伝課長になりました。管理職は自ら進んでなりました。
会社が大きくなるにつれ、どんどん若い子が入社し、私が20代後半になるとPR部門にもお店から異動で後輩が来ました。その子たちは自分と2歳か3歳しか違わないのに、プレーヤーとして私より優れていると感じたんです。
この子たちと競ってもしょうがない、プレーヤーとして勝ち目がなければ、彼らができないスケジュールやお金の管理をしようと思って業務のマネジメントに仕事の比重を移していったんです。その延長線上で管理職に手を挙げました。
同じ社内なのに、言葉がわからない!
最初は手探りのマネジメントでした。すぐに行き詰まりを感じました。広告宣伝の予算管理の仕事でしたから、会社全体の予算をつくるコーポレートの人たちと話をしなければなりません。ところが、彼らの言葉や手法がわからないんです。減価償却とかROEが何かが理解できませんでした。
広告宣伝費は会社全体の予算のなかでもかなりの割合を占めています。このまま私に知識がなかったら、彼らに「こうしてくれ」と言われたら黙って従うしかありません。だったら自分でスキルをつけるしかない。それで05年からグロービスマネジメントスクールに通い始めました。
ビジネススクールではアカウンティング、ファイナンス、経営戦略の基礎講座を取りました。平日、仕事が終わったらスクールへ。この時期、会社が事業部制を敷いていて、広告宣伝の担当者をみんな事業部に付けていました。その人たちは忙しかったのですが、私は社長室という部署でまだ時間に余裕があったのです。現場に立ち会うこともなく、正直、「干されたのかな?」と思っていました。
でも、おかげで2年間勉強ができ、コーポレートの人たちの言葉がわかるようになりました。今まで英語がしゃべれなかった人間が話せるようになったくらいの違いがあります。よし、これで彼らとケンカができ、ときどきは勝てるかもと思いました(笑)。