口減らしは「潔く美しく尊い」行いなのか

深沢七郎の『楢山節考』という小説、その映画化された作品はあまりにも有名ゆえに、ご存じの方も少なくないだろう。これは男女ともに70歳になったら姥捨山にて生涯を終える「楢山まいり」という貧しい山村のしきたりを描いたものだ。村の存続のための「口減らし」を自ら進んで決意する老婆「おりん」が、その主人公だ。

この作品を読んだ人に問うてみたい。「こんなしきたりが村の掟だなんてあり得ない。異常すぎる」と恐怖に震えただろうか。それとも「おりんは、村のため、子や孫のために自ら命を捨てたのだ。まさに潔く美しく尊い行いではないか」と感動しただろうか。

この舞台となった貧しい山村と、現在の日本の置かれている状況はまったく異なる。だが、冒頭に紹介した発言をはじめとした「このまま高齢者が増えると若者たちにしわ寄せがくるから、高齢者には早くいなくなってもらうべき」との主張や思考は、まさに「現代の楢山節考」といえるだろう。

ススキが風にそよいでいる、日本の田舎のイメージ
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そしてこれらの主張を掲げる人たちは、現在の日本がさも楢山節考の舞台となった貧しい山村のような窮状に直面しているかのように人々に錯覚させ、その窮状を打開するには、その原因となっている高齢者をはじめとした「社会のお荷物」を排除せねばならないとの理屈をベースとして語っている。

しかし、そもそも高齢者が社会からごっそりといなくなれば、日本の財政、経済はV字回復するのだろうか。それこそ「経済学者」の解説が聞きたいところだ。

日本に「安楽死法制化」の議論は早すぎる

折りも折、フランスではマクロン大統領が、末期がんなどで余命が限られると診断されている成人に限って安楽死や自殺幇助を法律で認めることを支持すると初めて表明し、こうした措置を盛り込んだ「人生の終末」法案を5月に議会へ提出するよう政府に求める方針を示したという。

またXでは、安楽死が認められているスイスで最期を迎えたパーキンソン病患者のインタビュー番組が話題となって以降、「#国は安楽死を認めてください」とのタグをつけた投稿があふれた。これらの投稿の中に、難病や末期の患者さんの「死ぬ権利」も認めるべきだとの主張に紛れて、これらの人たちを揶揄し排除しようとする「優生思想」の言説が少なからずあったことに、私は震えた。

このような優生思想の言説が蔓延はびこる環境で、安楽死の議論を冷静におこなうことなどできるだろうか。フランスがどのような環境かは私にはわからないし、すでに安楽死が法制化されている国に優生思想が皆無であるのかも私にはわからないが、少なくとも優生思想を語る人物が公然とテレビに出演し、政府機関で重用されるような国において、安楽死法制化の議論など開始すらしてはならないと私は思う。