祖父の吉宗が目をかけた聡明な少年

ただ、ドラマを楽しむためにも、史実の家治がどんな人物であったか、知っておいても損はないだろう。

生まれたのは元文2年(1737)5月22日。享保の改革を断行して幕府の財政を立て直そうとした8代将軍吉宗が祖父である。つまり、紀州徳川家の血を引いている。

このため、祖父も父も江戸城では生まれていない。紀州藩主だった祖父の吉宗は、和歌山城下の御用屋敷で生まれ、父の家重も、江戸ではあるが赤坂の紀州藩邸(現赤坂御所)が出生地だ。これに対し、家治は江戸城西の丸で生まれている。その意味では、出生の秘密云々を問われることがない、生まれながらの将軍だった。

皇居
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父の家重は生まれながら病弱で、おまけに言語障害もあった。必ずしも愚鈍ではなかったといわれるが、言語は年を追って不明瞭になり、聞き分けることができるのは側近の大岡忠光だけだった。このため、宝暦10年(1760)4月に忠光が死ぬと、将軍職を家治に譲っている。

一方、嫡男の家重に障害があっただけに、祖父の吉宗は聡明だった家治に期待をかけ、寛延4年(1751)に死去するまで、みずから英才教育を施した。このため、家治は武芸に長けるとともに、能や書画などにもすぐれた才能を発揮したという。

ドラマで主役を務める五十宮倫子とは、将軍になる前の宝暦4年(1754)12月に結婚している。倫子は東山天皇の皇子で閑院宮家を創設した直仁親王の娘。家治の将軍就任前に一人目の女子を出産している。

徳川将軍きっての愛妻家だった家治

しかし、聡明ではあったものの、従順で温厚な性格が、リーダーシップをとるのに向かなかったのか、将軍就任後は父の遺言にしたがって(家重は家治の将軍就任の翌年に死去した)、田沼意次を重用し、次第に政治向きのことは田沼に委任するようになった。

最初は側用人だった田沼が老中に出世してからは、家治の出る幕はほとんどなくなり、武芸や文芸などの趣味の世界に没頭するようになった。なかでも書画と将棋を好み、暇さえあれば将棋に高じて、詰め将棋についての本まで書いている。

こうして幕政は田沼に任せきっていた、という史実から、ドラマでは出生の秘密を田沼に握られていた、というストーリーを創作したのだろう。

また、家治が愛妻家であったのはまちがいない。

徳川将軍の正室は、3代家光のもとに鷹司孝子が嫁いで以来、原則として、皇族や公家の娘が京都から迎えられた。しかし、政略婚であったため、家光が孝子を顧みなかったのが先例になったかのように、9代家重までだれも正室とのあいだに子をもうけなかった。

ところが、家治は正室の倫子を寵愛し、彼女とのあいだに女子を2人もうけている。将軍の正室が出産したのは、じつに2代将軍秀忠の正室の浅井江以来だった。それだけに、側室をもつことには消極的で、ドラマに登場する知保(蓮光院)と品(養蓮院)の2人のほかには確認されていない。