昭和の大物政治家は東京に縛られなかった

【御厨】一種の猿蟹合戦だね。

【原】そうなんですよ。吉田は昭和天皇に対して忠誠心を持っていました。同時に、戦前に昭和天皇が持っていた巨大な権力の空白を埋めるのは自分しかいないと、自身の役割をはっきり意識していた。そんな吉田に対して天皇が複雑な感情を抱いていたことは、田島が天皇とのやりとりを記録した『昭和天皇拝謁記』から読み取れます。再軍備論者だった昭和天皇は、吉田の軽武装論を批判しながらも、吉田に代わる存在はいないことも認めていたんですね。

【御厨】やはりスケールが大きい。今の政治家にも「自分は政治に何をかけるのか」「自分はどういう政治をしたいのか」というこれから先の大きな話を発信していく必要があると思います。これは安倍さんも明示しなかった。菅(義偉元首相)さんも凡百の政治家より優れていることは間違いないけど、目の前の問題をどう決着させるかに終始したと思うね。

【原】吉田茂は全く東京に縛られてないんですね。鳩山一郎や石橋湛山、岸信介、池田勇人など戦後復興期に政権を担った保守政治家たちも同様です。永田町の狭い世界で完結せず、むしろそこから自由になることが、大局的に見れば、政治家自身にプラスになるという信念があったと思いますね。

【御厨】吉田は空間を意識した政治を行った戦後最初の首相だね。僕は『権力の館を歩く』でも書いたけど、吉田は首相官邸が大嫌いだから、目黒公邸(旧朝香宮邸、東京都港区)や大磯御殿(神奈川県大磯町)という空間を利用して政治を行ったわけだね。政治家や役人を呼びつける方法も構造化されていて、吉田なりの政権維持の工夫がされていた。

『権力の館』と『戦後政治と温泉』
撮影=遠藤素子
いまの政治家は「空間」をどう考えているのだろうか

困難な時代にこそ「ゆとり」が必要だ

原武史『戦後政治と温泉』(中央公論新社)
原武史『戦後政治と温泉』(中央公論新社)

【原】吉田は1950年に木賀温泉に滞在しましたが、1951年からは大涌谷の冠峰楼に滞在した53年を除いて小涌谷の三井別邸に長期滞在して、サンフランシスコ講和会議の構想を練ったり、抜き打ち解散の準備をしたりするわけです。温泉に浸かって体調を整えながら、政治家や役人を呼びつけて議論する。あるいは東京では見られない風景を楽しむ。敗戦直後の困難な時代でしたが、政治家の東京という空間に縛られない「ゆとり」が戦後日本を前に進める原動力になったわけですね。

【御厨】今の政治に必要なのは「日本をどうするのか」という長期的展望です。この30年間全く出てこないし、行き当たりばったりの政治を繰り返してきた。政治が積分されない、全部微分の政治になってしまったように思いますね。構想のレベルでいいんです。みんなバカバカしいと思っているかもしれないけど、自分がやりたい政治を、政治家が自ら考え、稚拙でもいいから言葉にすることが非常に大切です。それが、政治を少しずつみんなのものにしていくことになると僕は思ってます。

(構成=奥地維也)
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