「光る君へ」の脚本のここが上手い

兼家は「これはわが一族の命運に関わる話じゃ。身を正してよく聞け」と前置きし、計画を打ち明けた。それによれば、花山天皇が寵愛ちょうあいしていた亡き忯子よしこ(井上咲楽)が怨霊となって兼家に取り憑いたという噂を内裏に流したうえで、不吉なことが次々と起きる状況を創出し、天皇を退位に追い込むというのだ。

すでに陰陽師の安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)は取り込まれており、花山天皇のもとを訪れて忯子が怨霊になっていると伝え、その状況を解消するには、天皇が出家するしかないと告げる。

このあたり、脚色がすぎるのではないか、と感じる視聴者もいるだろう。妻の怨霊が云々など天皇に通じるものか、と。

だが、王朝時代の貴族たちは実際、日常生活で陰陽師に頼ることが頻繁だった。それは生活に余裕がある人が高級なジムに通うというよりもむしろ、毎日しっかり歩くといった、生活上の基本習慣に近いものだった。

安倍晴明が疫病神を退治する様子
安倍晴明が疫病神を退治する様子(画像=「泣不動縁起」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

当時の貴族は、たとえば鳥が部屋に飛び込んだとか、犬が殿上でおしっこをしたといった類いの日常的な事象を、いちいち怨霊の仕業による怪異だと考え、そのたびに陰陽師に占わせた。だから、安倍晴明を手なずけて天皇を騙すのは、非常に効果的な方法だったと考えられる。脚本にはこうして、当時の常識が反映されているが、さらには、いまに伝えられる兼家像の反映も見てとれる。

歴史物語の『大鏡』によれば、花山天皇に替わって、兼家の外孫の一条天皇が即位する日の朝、あらたしい玉座に血まみれの生首が転がっていたという。おそらくは反兼家派による嫌がらせで、それこそ怨霊の仕業だと思わせ、即位式を延期させようというねらいだったのではないだろうか。

ところが、こんな重大な報告を受けた兼家は、返答せずに寝たふりをはじめ、しばらくして起きると「もう準備はできたか」と尋ねたという。即位式に影響をおよぼさないためには、狸寝入りはするし、怨霊に振り回されることもない――という兼家像が、ドラマには上手に反映されている。

天皇を騙して出家させる

さて、のちに「寛和の変」と称されるこの陰謀劇の実際を見ていきたい。

花山天皇が寵愛する忯子を喪ったのは寛和元年(985)7月18日で、天皇はショックのあまり、出家を考えるようになった模様だ。それが実行に移されたのは、翌寛和2年(986)6月23日のことで、このとき天皇に出家を勧めたのは、『扶桑略記』によれば、天皇の秘書的役割の蔵人として側近く仕えていた道兼だった。

その日の明け方、花山天皇は道兼および厳久という僧侶に誘導されて密かに清涼殿を出て、朔平門のところに用意してあった車に道兼らと同乗し、山科の元慶寺に向かった。天皇を内裏から脱出させるなど簡単ではないが、目立たない経路を選ぶなどして見事に成功。寺に到着すると、すぐに出家させられた。

このとき、道兼は自分も一緒に出家するといって天皇を抱き込み、元慶寺に到着すると「父にあいさつをしてくる」などといってその場を立ち去り、戻らなかったという。

また、この出家劇と並行して行われたことが、この陰謀の鮮やかさを際立たせている。すなわち、花山天皇が内裏を出たことを確認した兼家の指示によるものだろう、兼家が『蜻蛉日記』の作者に生ませた次男の道綱が、三種の神器の宝剣をただちに皇太子の居所である凝花舎に移し、東宮懐仁親王に献上した。

そのうえで兼家は内裏に参入し、すべての門を閉めて厳重に警備し、即位の儀式(譲国の儀)を行ったのである。こうして兼家の外孫の懐仁親王は、わずか7歳にして即位することになった(一条天皇)。