笠置シヅ子の代表曲「東京ブギウギ」は終戦直後、進駐軍兵士が大勢見守る中で録音された。大阪大学大学院人文学研究科教授の輪島裕介さんは「作曲家の服部良一が生み出し、笠置が歌ったブギウギは、アメリカ人にも通じ、舞台や映画でのプロモーションが成功して大ヒットした。そして、笠置が歌う明るい曲はすべてブギウギと認識されるようになった」という――。

※本稿は、輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

昭和25年にハワイ慰問公演を行った笠置シヅ子(中央)、服部良一(右)
提供=笠置シヅ子資料室
昭和25年(1950)にハワイ慰問公演を行った笠置シヅ子(中央)、服部良一(右)

作詞家が進駐軍の米兵士を連れてきて見学する中での録音

「東京ブギウギ」は、1947年9月10日に録音される。そのときには、語学に堪能な鈴木まさる(「東京ブギウギ」の作詞家)の宣伝で米兵たちが大挙スタジオにやってきた。スタジオは内幸町の東洋拓殖ビルにあり、その隣の政友会ビルは接収され占領軍の下士官クラブとなっていた。

鈴木勝は責任を感じている。二、三人の親しい者に声をかけたはずが、下士官クラブをカラにしたばかりか、近くに点在する将校宿舎や軍属クラブからも音楽好きが噂をきいて押しかけてきている。懸命に静粛を呼びかけていたが、心配は無用だった。指揮棒がおろされると、ぴたりと私語がやみ、全員のからだはスイングしているが、セキーつ出さない。
笠置シヅ子のパンチのある咆哮のような歌唱、ビートのきいたコロムビア・オーケストラ、それを全身で盛り立てている大勢のG・I最高のライブ録音のムードだった。
OKのランプがつくと、真っ先に歓声を上げたのは、ぼくたちではなく、G・Iたちであった。たちまち「東京ブギウギ」の大合唱だ。ビールやウィスキーや、チョコレートや、そのほか当時の日本人には貴重なものがどんどんスタジオ内に運びこまれ、期せずして大祝賀会になってしまった。
ぼくは、ビールに舌つづみをうちながら、「東京ブギウギ」がアメリカ人にも通じた喜びをかみしめていた。(『ぼくの音楽人生』)

作曲の服部良一は曲がアメリカ人に通じたことを喜んだ

これらのエピソードから、「東京ブギウギ」がまずはレコード用の流行歌として企画されたことがわかる。これは笠置のキャリアにとって例外的だった。録音は9月だが、レコード発売予定は翌年1月だった。かなり間があるが、当時のレコード原料不足によるものかもしれない。

発売までの間に「ステージで反応を見ることにした」として、まず大阪の梅田劇場で、「セコハン娘」とともに披露されている。最初の舞台が大阪なのが面白い。「これは大成功だった。大阪人は時流に敏感なのか、乗りやすいのか、はたまた東京……というタイトルに魅力を感じるのか、「東京ブギウギ」は大阪で火がついたのである」。