太平洋戦争激化の中、笠置と頴右は結ばれるが……

1944年7月、サイパン島が米軍攻撃で陥落してしまうと、国中で軍靴の足音が響き、時代は若者の未来や希望を奪っていった。この頃、頴右は結核にかかる。若者の命は自分たちのものではなく、国家のものだった。そして44年暮れ、二人は結ばれる。

「サイパンが落ちて、今にも本上の上空に大編隊が飛來(飛来)するとの恐怖の中で、私たちの情炎(編集部註:情念の間違いと思われる)は火と燃えさかりました」(『歌う自画像』)

頴右はこの年、喀血し、学徒動員も免除になっている。不遇な歌手と不治の病を背負った青年の恋、まるで神が引き合わせたかのような、運命的ともいえる恋だった。二人の逢瀬は切なく、そうであればあるほど恋は燃え上がっただろう。やがて二人は結婚を誓う。

この、44年暮れから46年までの二人の“愛情生活”(『歌う自画像』)は、日本人にとって最も不幸なときだったが、皮肉なことに笠置にとっては「わが生涯最良の日々」だった。歌手としては地獄の時代ではあったが、女性として生涯でたった一度の恋に落ちたのだ。笠置と頴右にとって、生きるためには必要な、必然的で運命的な恋愛だった。

頴右は結核が悪化し、母・吉本せいの元へ帰ってゆく

45年5月25日、東京大空襲。笠置は京都・花月で公演中だったので無事だったが、三軒茶屋の住まいを焼け出され、無一物となった。音吉は郷里、香川の引田に戻る。市ヶ谷の吉本邸も焼失。穎右の叔父の吉本興業常務で東京支社長・林弘高の世話で、笠置と頴右は林家の隣家のフランス人宅に年末まで仮住まいする。二人が同じ屋根の下に暮らしたのは、後にも先にもこの年の数カ月間だけだった。ここで8月15日を迎え、長い戦争が終わった。

47年1月、笠置は世田谷・松陰神社前に一軒家を借りて引っ越し、マネジャーの山内義富一家と住む。一方、恋人である吉本頴右の肺結核は次第に悪化していき、彼は西宮市の自宅へ戻って療養に専念することになる。1月14日、笠置は東京駅で彼を見送ったが、これが頴右との今生の別れとなった。

妊娠5カ月の笠置は服部良一を始め周囲をハラハラさせながら、1月29日、笠置主演の日劇「ジャズカルメン」初日の幕が開いた。当時の雑誌には、笠置の「ハラボテのカルメン」という記事もあって驚く。実はこの「ジャズカルメン」で、笠置は引退するつもりだった。結婚を誓った頴右との約束だったのだ。