笠置・服部サイドからのひばりへの嫌がらせだったのか

後年、ひばりは「その時、わたしの持ち歌は『悲しき口笛』と『河童ブギウギ』しかなかったので、本当に途方に暮れてしまいました」と振り返っている。

28歳の美空ひばり、1965年9月
写真=時事通信フォト
28歳の美空ひばり、1965年9月

これを笠置・服部サイドの嫌がらせととるかは微妙である。渡米前の笠置たちにしてみれば、なにしろ自分たちのヒット曲を先にひばりに歌われては興行価値に響いてくる。オリジナル歌手としては、心中穏やかでいられまい。

日本著作権協会に手を回したのは服部ではない。服部の名前でそれを強行したのは、勧進元の興行会社と思われる。会社にしてみれば、興行の名目はどうであれ利益を出さなければならない。

この問題は、笠置とひばりが帰国後も、しこりとなって残った。

昭和42年(1967)の「月刊文藝春秋」10月号に笠置の娘エイ子が、この問題に関して次のような寄稿をしている。いちばん説得力のある話ではないだろうか。

笠置のひとり娘・エイ子が語った事件の真相

「私の知る限り、母が(直接には母ではなくて、周りの音楽関係者かもしれません)自分の歌を歌わないでくれと、ひばりさんに申し入れたのは、昭和25年5月、ひばりさんのハワイ公演の前のことです。そのころのひばりさんはまだ持ち歌が少なく、ハワイ公演でも母のヒット曲を歌う予定になっていました。

これが国内であれば、もともとは母が歌ってヒットしたものだと誰もがわかります。しかしハワイではそうもいきません。実は母も、同じ年の秋ハワイ公演を予定していたもので、ハワイの人に誤解を招くようなことはやめていただきたいと申し上げたわけで、話合いはつかないまま、ひばりさんはハワイで一連のブギを歌いまくりました。

著作権料さえ払えば、誰の曲を歌おうとかまわないのではないか、という考えもあるかもしれません。そこから母の『意地悪説』が出てきているのでしょう。しかし同じ世界で仕事をしているもの同士礼儀というものがあるのです。後にゴッドマザーとまでいわれたひばりさんの母喜美枝さんが、当時そのあたりのことがよく分っていなかったことは仕方がないことかもしれません。

しかし、母が腹に据えかねたのは、当時のひばりさんのマネージャーに対してでした。この人は以前から母とは顔見知りだったのです。ですから、事前に母に対して根回しのようなことが出来たはずなのに、一切それをしなかったんです。

このように母は意志が強く、何事に対してもきびしくけじめをつけ、筋が通っていなければ気のすまない人でした」