悪人とされた藤原時平の正体

では、藤原時平はどんな人物だったのだろう。摂政・関白となった藤原基経の長男として生まれ、昌泰2年(899)の29歳のとき左大臣(朝廷の当時の最高位)に任ぜられ、右大臣の道真とよく醍醐天皇を補佐した。好色な人で、叔父の妻を自分のものにしたといい、笑い上戸で、いったん笑い出すと止まらない話があった。

だが、こんな話もある。醍醐天皇は、貴族たちに倹約を求めていたが、あるとき時平がこれを無視して華美な服装で参内した。すると醍醐天皇は、烈火の如く時平を叱責しっせきしたのである。恐縮した時平はただちに屋敷にこもり、門を閉ざして謹慎生活に入ってしまった。これを目の当たりにした貴族たちは仰天し、以後、質素な生活に改めたという。

じつはこれ、貴族たちの華美をいさめるための、時平が醍醐天皇と仕組んだ芝居だったのである。このように時平はかなり機転が利く人だったようだ。

政治的にも有能で、道真失脚後は、醍醐天皇のもとで政治改革をすすめている。高校日本史の教科書にも「時平の主導のもとに律令制を維持するため、902(延喜2)年には、最後となった班田制の励行や、延喜の荘園整理令が出された」(『日本史探究』実教出版)とある。

また、初の勅撰和歌集である『古今和歌集』について、和歌に造詣の深い時平が積極的に編纂を支援したと考える研究者が多い。法令集『延喜式』の編纂の中心になったのも時平だといわれている。

人間的にも傲慢だった可能性がある

ただ、一方で日本史の教科書には、次のように評されている。

「宇多天皇は摂政・関白をおかず、学者菅原道真を重く用いたが、続く醍醐天皇の時、藤原時平は策謀を用いて政界から追放した」(『詳説日本史B改訂版』山川出版社)

「醍醐天皇も摂政・関白をおかず、藤原時平を左大臣、道真を右大臣としたが、901(延喜元)年、道真は時平の策謀によって大宰府に左遷された」(『日本史探究』実教出版)

このように現在でも、時平が策謀を用いて政界から道真を左遷・追放したとある。

ところで、そもそも論になるが、本当に道真の失脚は、藤原時平による讒訴だったのだろうか。

というのは、じつは、道真が貴族たちの嫌われ者だったからだ。前述のとおり、あまりの栄達ぶりに貴族たちの多くが激しい嫉妬を覚えていたのだ。それに、道真自身が人間的にも傲慢ごうまんだった可能性がある。

理由は不明だが、弟子で蔵人頭に出世した藤原菅根すがねの頬を平手打ちしたという逸話があるからだ。現代でいえばパワハラだろう。寛平10年(898)には、道真と時平が政治を取り仕切ってしまっていると疑いを持ち、公卿たちが一斉に仕事をボイコットする事態も起こっている。道真も貴族たちの反発をひしひしと感じていたようで、右大臣の辞任を醍醐天皇に打診するようになった。

とはいえ、本気でやめるつもりはなく、引き留められるままに、右大臣の地位に居座り続けた。