大谷吉継は小早川勢を防いだがさらなる離反者に倒された

ところが、東軍藤堂高虎の合図に従って、事前に内応を約束していた脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四隊が一斉に離反して西軍に攻めかかった。さしもの大谷隊らもこれには支えきれず壊滅、吉継は自害した。

小早川隊の参戦を見た家康は、全軍に総攻撃を命じた。小早川隊の裏切りと東軍総攻撃によって、西軍は総崩れとなった。大谷隊の壊滅でまず小西隊が崩れ、宇喜多隊も潰えた。小西行長・宇喜多秀家は戦場から離脱した。石田隊は最後まで抗戦したものの、ついに崩され、三成は伊吹山方面へと逃走した。

狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)
狩野貞信作、彦根城本「関ヶ原合戦屏風」(部分)。左下に松尾山に陣を敷いた小早川軍(違い鎌の旗印)が描かれている(画像=関ヶ原町歴史民俗資料館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

かくして天下分け目の戦いは、東軍の圧勝という形で幕を閉じたのである。

家康が小早川軍を徴発した「問鉄砲」は本当にあったのか

関ヶ原合戦の通説的叙述は、『日本戦史関原役』『近世日本国民史家康時代上巻』などに拠った。これらの文献が主な典拠としたのは、『関原軍記大成』に代表される江戸時代の関ヶ原軍記である。

ところが近年、白峰旬氏が従来の関ヶ原合戦像を根底から覆す新説を発表した。白峰氏は精力的に関ヶ原関係の論文・書籍を発表しているが、氏の関ヶ原論で最も重要なものは、「問鉄砲」の否定であろう。

白峰氏は史料を博捜はくそうし、関ヶ原合戦直後の史料や江戸時代前期に成立した編纂へんさん物には「問鉄砲」の記述がないことを明らかにした。白峰氏によれば、「問鉄砲」の初出は元禄元年(1688)成立の『黒田家譜』だという。白峰氏の新説提唱後、学界で研究が進展し、現在確認されている「問鉄砲」の初出史料は植木悦が著した軍記物『慶長軍記』である。同書は寛文3年(1663)に成立しているので、『黒田家譜』よりは20年以上早いが、それでも関ヶ原合戦から半世紀以上を経ている。一連の研究により、「問鉄砲」が後世の創作であることはほぼ確定したと言える。

従来、「問鉄砲」という家康の無謀と紙一重の大胆な策が勝因と考えられてきた。たとえば歴史学者の笠谷和比古氏は「東軍優勢という当面の戦局に即してのみ見るならば、小早川に挑発鉄砲を撃ちかけるというのは、常軌を逸した行為と言わざるをえないだろう。すなわち家康が、そのようなリスクを犯してもなお小早川隊に向けて挑発の鉄砲射撃を敢行したということは、それを実行しなければ、それ以上のリスクが到来するという状況認識を抜きにしては理解できないということである」と論じている(『戦争の日本史17 関ヶ原合戦と大坂の陣』)。