大奥がいまも「謎多き存在」であるワケ

次いで御客応答、御中﨟ちゅうろう、御錠口、表使など多くの役職があるが、御三之間から以下は将軍に会うことができない(御目見以下)。御中居なかい、火之番、御半下おはしたといった御目見以下は、御家人のみならず、町人や百姓の娘から採用されることも少なくなかった。

また、上級の奥女中になると、個人的に雇用したり面倒を見ている部屋方(部屋子)が数名から十数名いた。彼女たちの多くも商人や豪農の娘で、大奥では行儀や芸事が学べるので、短期間でも奉公するとはくが付いて良縁に恵まれたため、つてをたどって娘を大奥へ入れる人々も少なくなかった。

四代将軍以降、たびたび出された女中法度によって、大奥内での出来事は他言してはならない決まりになっており、大奥入りするさい、女中になる者は血判付きの誓紙を差し出した。近年は地方の農村文書などによって多少は大奥の出来事がわかってきたものの、まだまだ謎が多い。

そもそも上級の奥女中は、病気療養などでない限り、長期的に江戸城から出ることは許されない。中級の奥女中である御次おつぎ以下は、宿下がり(休暇)が許された。といっても、大奥に入ってから3年目で初めて6日間、6年目で12日間、9年目で16日間という少なさであった。

上級女中は年収2000万円超の厚待遇だったが…

とはいえ、高級女中はかごの鳥だったわけではない。将軍や御台所の代参というかたちで、寺社参詣は許されていたからだ。ただ、中には絵島えじまのように芝居を見たあと、役者と密会して処罰されることもあった。また、ホストクラブのような寺院が摘発されるケースもあった。

上級女中になると、今でいうと2千万円以上の年収があったとされる。また、30年勤続すると屋敷が下賜され、その賃貸料が懐に入ったうえ、死ぬまで年金がもらえた。

大奥には部屋方を含め、多い時期には3千人を超える人々が暮らしていたとされる。そんな莫大な人件費もあって、大奥は幕府支出のおよそ1割を占めたという。このため享保きょうほうの改革をはじめた八代将軍吉宗は、奥女中のうち50人をリストラした。そのやり方だが、美女を50名集めさせたうえで、彼女たちに「若くて美しければ、良縁に恵まれるだろう」と退職を申し渡したのだ。