こうして私は「南海ファン」になった

とはいえ、その事は多くの野球少年にとって、阪神タイガースこそが、テレビやラジオではない「プロ野球」と実際に触れる事ができる窓口となっていた事を意味していた。筆者の周囲もそうだった。

ラジオはいつも大本営宜しく、阪神の躍進を伝えており――なのにどうして一向に優勝しないのかは不思議だったが――結果として、子供達が憧れた野球選手の多くも阪神の選手だった。捕手は当然背番号22をつけ、ショートは6番、エースは言うまでもなく28番だった。だから筆者もそんなスター選手の活躍を目の前に見て見たかった。父親にせがんで球場に連れて行って貰う事にした。

だが、世の中ではそこでいろいろな行き違いが起こる。幼い筆者が見たかったのは、阪神の試合だったのだが、連れていかれたのは大阪球場だった。父親が約束を破ったからではない。その日は南海と阪神のオープン戦が行われる日だったからだった。

大阪球場の外野席とバックスクリーン(1989年)
大阪球場の外野席とバックスクリーン(1989年)(写真=Yasuoyamada/CC-BY-SA-3.0/Wikimedia Commons

正直、球場について驚いた。オープン戦とはいえこんなに観客がいなくて大丈夫なのか、と思うほど観客はいない。父親は「だからこの球場ならいつでも来れるんだ」と言っていたので、要は甲子園のチケットを取るのが大変だったのだろう。スタメンに並んだ南海の選手で知っていたのは、広瀬と野村、そして藤原くらいで、門田の存在すらきちんと認識していなかった。「あ、あれがホームラン王の田淵だ」とか思いながら見ていたので、この時点ではまだ阪神ファンだったのかも知れない。

大量の情報が日々流れてくる

でも、試合は南海が勝った。はじめて間近で見たプロ野球の試合だったし、その中で自分があまり知らない選手達が、「有名な」阪神の投手を易々と攻略するのを見て、こっちのチームの方が強いじゃないか、とわくわくしながら眺めていた。

帰りにスポーツ新聞を買って貰って、南海のチームや選手について調べた。「そうやそうや、このチーム一昨年に優勝した強いチームやん。阪神とは違うやん」。父親は言った。「(近鉄沿線にあった実家からは)甲子園は遠いし、チケットもなかなか取れないけど、大阪球場ならいつでもいけるぞ」。こうして筆者のそこから14年続く長く辛いホークスファンとしての前半生がはじまる事になった。

こうして見ると、関西地方の野球ファンにとって、阪神タイガースが如何に特殊な存在かわかる。この社会にはおよそ考えられないくらい、多くの阪神タイガースに関する情報が流れている。だから人々は自然に阪神について語る様になり、それが多くの人々にとってプロ野球に関心を持つ窓口になる。