誰もが秀吉を恐れ、憎んでいた

「彼は身長が低く、また醜悪な容貌の持主で、片手には六本の指があった。目がとび出ており、シナ人のように鬚が少なかった。(中略)彼は自らの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、それとは比べものにならぬほど多くの悪癖と意地悪さを加えていった。

家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢ごうまんで、嫌われ者であり、彼に対して憎悪の念を抱かぬ者とてはいないほどであった。彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事をみずからの考えで決定し、誰一人、あえて彼の意に逆らうがごときことを一言として述べる者はいなかった」

「片手には六本の指」という記述だが、前田利家の回想録『国祖遺言』にも「太閤様は右之手おやゆひ一ツ多六御座候」(太閤さまは右手の指は、親指が1本多く6本あった)と記されているので、多指症だったのではないだろうか。

秀吉の「悪癖と意地悪さ」、「傲慢」さ、そして「きわめて陰鬱で下賤な家」の出身であることへのコンプレックスの反動が、もっとも醜悪なかたちで表れたのが、次に紹介する逸話だろう。

親族の首を容赦なく斬る

天正15年(1587)、「一人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣装をまとった二、三十名の身分の高い武士を従えて大坂の政庁に現れるという出来事」があり、その若者は「関白の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた」というのだが――。

「(秀吉は)自らの母大政所に対し、かの人物を息子として知っているかどうか、そして息子として認めるかどうかと問い質した。彼女はその男を息子として認知することを恥じたので、(中略)過酷にも彼の申し立てを否定し、人非人的に、そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した。

その言葉をまだ言い終えるか終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首は棒に刺され、都への街道筋に曝された。このように関白は己れの肉親者や血族の者すら己れに不都合とあれば許しはしなかったのである」

秀吉が貧しい生まれだったのはまちがいない。生母の大政所も、秀吉の父を亡くし、再婚相手にも先立たれたことが知られるが、それ以上の結婚歴があったという。

いわば隠し子が何人もいた可能性があり、それは秀吉にとっても大政所にとっても不都合な真実だったのだろう。