家康の硬軟使い分けの妙

家康が岡崎城主だった頃の話だ。夜になると城には宿直者が泊まった。三人で一組だった。ところが、三人は相談して、一人が残り、二人は近くの花街へ遊びに行く慣わしにした。

ある夜、いつものとおり二人が花街に行ってしまうと、家康が入ってきた。残っていた一人はビックリした。真っ青になった。家康は「他の二人はどうした?」と聞いた。家康はすでに、宿直者の三分の二が遊びに出掛けていることを知っていた。嘘がつけず、残っていた宿直者は、実はこうこうだと白状した。

家康は、その宿直者の肩を叩いてこういった。

童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)
童門冬二『徳川家康の人間関係学』(プレジデント社)

「おまえは馬鹿だな。なぜ、一緒に遊びに行かないのだ? 今夜は俺が宿直をするから、おまえも早く行って遊んでこい」

真っ青になった宿直者は、遊びに行った二人のところに飛んでいった。二人も真っ青になって帰ってきた。家康は、しかしニコリと笑うと、

「これからは気をつけろよ。まだまだ油断ができない世の中だからな。今夜のことは忘れよう」

といった。

こういうように、硬軟使い分けをするところが、家康の人情の機微に触れた心憎い管理法だったのである。

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