柴田勝家が自らの養子に宛てた書状

「今日の夕方午後8時頃、松江に下着した。勝豊からの書状などを披見し、そちらの状況を理解した。心配していた病気が快復に向かっているとのことなので安心した。秀吉勢が出陣してくると聞き及んでいる。こちらも昨日(閏1月28日)から4か国(越中・能登・加賀・越前)の軍勢を動員している。

秀吉軍が長浜城まで遠征して攻囲すれば、好機到来である。一戦して片を付ける。加賀国については、徳山秀現とこのやまひであきが今夜、こちらに来て状況を報告する予定である。勝豊、および勝豊の家臣が秀吉に差し出した人質が脱出したことは上出来である。2月3日には出陣する予定である」

北近江の長浜城は秀吉方に明け渡された

勝家の書状では人質が脱出したように記されているが、秀吉の2月7日付、同9日付の書状を見ると、勝豊の宿老らが「人質七人」を秀吉に差し出してきた、と記している。最初に差し出した人質は脱出したのかもしれないが、改めて家老衆が7人も秀吉に差し出しており、勝豊の意思とは無関係に長浜城が秀吉方になった可能性もある。

ただ、若狭の佐柿に滞在していた丹羽長秀の2月27日付秀吉宛書状によると、勝家軍が進軍してきても、勝豊や堀秀政を配置しているので安心してほしいとしており、勝豊は完全に秀吉方のような書きぶりである。勝豊の罹病に触れつつ、長秀からも使者を派遣して油断のないように厳しく指示しているので安心してほしい、と伝えており、勝豊の周囲は秀吉方の手の者によって固められていたようである。

柴田勝家像 北の庄城址(福井県福井市)
写真=時事通信フォト
柴田勝家像 北の庄城址(福井県福井市)

勝豊の意向がどこまで反映できていたのか不明である。これを裏付けるように、賤ヶ岳の戦いに際しては勝豊の家臣が分裂し、勝家陣営に寝返った者もいる。秀吉の書状(『雑録追加』)によると、勝豊は4月5日時点でも療養のために在京していることが確認できる。死去日は諸説あるが、賤ヶ岳の本戦以前には病没していたようである。