倒産の危機に直面し、起死回生の百貨店攻略に挑む

女性社員も採用し、気合を入れてブラパットを売っていこうと力こぶを作った矢先、幸一はいきなり倒産の危機に直面することとなる。

昭和24年(1949)の冬はことのほか冷え込みがきつかった。するとブラパットがぱったりと売れなくなってしまう。厚着をする冬はバストラインを気にする必要がなくなることに気づかなかったのだ。

独占契約を結んでいたので、売れなくてもブラパットは次から次へと運び込まれてくる。当然、代金を支払わねばならない。とたんに資金繰りが厳しくなった。

昭和25年(1950)2月、会社存続の危機に立っていた幸一は、強い決意を持って上京した。百貨店攻略のためである。

以前、だめもとでブラパットを三越に持ち込んだ際、

「直接の納入は認められませんが、半沢商店さんを通じてなら検討してもいいですよ」

と言われたことがあった。

半沢商店は東京の大塚に本社を置く大手衣料雑貨問屋である。都内の百貨店への女性下着の納入をほとんど押さえ、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

機先を制することの好きな幸一としては珍しいことだが、これまで半沢商店へのアプローチは敢えて避け、距離を置いてきた。もし半沢商店に取引をお願いして失敗したら、当時の一流の証明であった百貨店への進出は諦めねばならないと考えたからだ。

ところが……事情は変わった。そもそも倒産の危機に直面しているのだ。失敗を恐れている場合ではない。起死回生の一手にするべく、不退転の決意で半沢商店訪問を決意した。

1年4カ月の間、京都と東京を往復した「東京飛脚」

行ってみると意外と小さな店舗であった。商品が道にはみ出すほど置かれ、みなかいがいしく働いている。

「ブラパットの和江商事ですが……」

と挨拶すると半沢はんざわいわお社長本人が出てきてくれ、彼の口から意外な言葉が飛び出してきた。

「いいところに来てくれた! 春も近づいてきたので、そろそろブラパットを仕入れようと思っていたところだよ」

なんとその場で50ダースもの注文をくれたのだ。

「ありがとうございます!」

深々と頭を下げ、店を出てもう誰も見ていないところまで来た時、へなへなと力が抜けた。これで倒産の危機はなんとか回避できる。

(まだ天は俺を見捨てていない!)

そう思った。

京都に帰る道すがら、その日見た半沢商店の店先を思い出していた。扱ったことのない商品がたくさんあった。とりわけコルセットの優美さに強く惹かれた。

京都に着くとすぐ、半沢社長に宛てて手紙を書いた。50ダースもらったブラパットの注文代金を、お金ではなくコルセットでもらいたいと申し出たのだ。幸一は半沢商店を、自社製品を百貨店に売ってもらう問屋として利用しながら、逆に自社で小売りする製品を卸してもらう問屋としても利用しようとしたわけだ。

半沢は驚いたに違いないが、了解したという返事とともに商品が送られてきた。

それらに和江商事が当時商標として使っていたクローバー印を貼って売り歩いたところ、仕入れ分はまたたく間に売り切れてしまった。

それからというもの、幸一は毎週ブラパットを担いで夜行に乗り、半沢商店にコルセットの仕入れをしに出かけた。この後、約1年4カ月の間、京都と東京の往復が続くのである。彼はこれを“東京飛脚”と呼んだ。