裕福で知的レベルの高い家庭で育ちながら、父の自殺、母の新興宗教への傾倒、経済理由による大学進学の断念、窮乏を理由とした実兄の自殺と、家族によって自分の人生の芽をことごとく踏み潰され、社会によって魂の生皮をゆっくりと剝がされていった山上徹也。

彼が「silent hill 333」としてツイートを始めたのは、映画『ジョーカー』を2回見、韓鶴子・旧統一教会総裁の来日公演に火炎瓶を持って行ったものの厳しい警備を前に諦めた日から、ちょうど1週間後のことだ。山上は映画『ジョーカー』の主人公・アーサーに対して共鳴とも呼んでいい感情をツイートに吐き出している。

十分なインテリジェンスと身体能力と客観性を持ち「こんなもののために生まれたんじゃない」と感じる彼にとって、残れる最後の尊厳とは「自室で秘密裏に制作した手製銃を撃ち放って、旧統一教会との政治的癒着に甘んじてきた三世政治家に自分の人生の責任を取らせる」ことだったのかもしれない。銃弾ははっきりと日本憲政史上最長政権の元首相に向けて発射され、確実にその命を奪っていった。

不況しか知らない「不況ネーティブ」たち

山上に対して「他人事ではない」「彼の半生は、もしかしたら『わたし』だったかもしれない」と言う五野井郁夫は、1歳ちがいの五野井自身と山上が物心ついてからずっと晒されてきた日本社会の「失われた30年」を、こう表現する。

困窮していても政府も社会も手を差し伸べてはくれず、受験以降は自分の努力もマンガやアニメ、ゲームやSNSの中とは異なり、報われない世界。何もこれはいわゆるロスジェネに限った話ではない。ロスジェネ以降のゆとり世代、さとり世代、ミレニアル世代、Z世代もほぼ同じ感覚だろう。

つまり山上被告にとっての「失われた30年」は、同時にこの国のロスジェネ以降の世代にとっても同様であり続けているのだ。世間的にはミレニアル世代やZ世代は輝かしいものとして語られがちだが、シャイニーで恵まれた人はどんな時代でもごく一部にすぎない。

たしかにロスジェネ以降、就職率は多少楽な面もあったかもしれないが、世の中に放り込まれた時のハードさという点では、おそらく現在の方がひどいだろう。なにせ反出生主義のような思想が力を持って共感を呼んでしまう時代である。この時代に自分や子どもが生まれてくることが不幸だと思えてしまう社会、先が見えない不安な世界だからこそ怪力乱神が再び力を持ち始めるのだ。(P.134「第二部 山上徹也、あるいは現代日本の肖像」五野井郁夫)

「無敵の人」や「親ガチャ」という言葉が周知され、社会前提と化して言論の進むネットの中では、マスメディアが幼い子どもたちを「デジタル・ネーティブ」と呼んで持ち上げた頃から、自分たちを自嘲的に不況ネーティブと呼ぶ年代層も現れた。