信康自害までに起きた本当のこと

平山優氏は、家康が忠次を信長のもとに派遣したのは、「『信長公記』にみえる七月十六日の酒井の安土訪問を指すものとみて間違いない」としている(『徳川家康と武田勝頼』幻冬舎新書)。天正7年(1579年)のことである。そして、いちど覚悟を決めた家康は、その後、断固とした態度を貫いている。

8月3日には岡崎城を訪問し、翌4日には、信康を激しい口論の末、領国の西端で織田領と接する大浜(愛知県碧南市)に幽閉した。黒田基樹氏は「この大浜への追放は、信長にそのことを明示するためのもの、とみなされる」と書く(『徳川家康の最新研究』朝日新書)。そして5日には三河衆を率いて西三河に進軍したが、黒田氏は「信康に味方する三河衆の存在を想定し、西三河に進軍することで、それを牽制するためであったろう」と解釈する(同)。

6日に岡崎城から信康の家臣団を排除して、榊原康政ら家康直系の家臣を配置。9日に信康を、浜松城に近くて監視しやすい堀江城(静岡県浜松市)に移すと、10日には、三河衆に信康に内通しないことを誓う起請文を書かせた。

これだけのことをして家康は13日に浜松に帰った。信康が二俣城(または近くの清瀧寺、ともに静岡県浜松市)で切腹したのは、2日後の15日だった。ちなみに家康は、三河衆の松平家忠が書いた『家忠日記』によれば、13日には家臣たちに、17日には北条氏と協力して武田勝頼を攻めると明言し、実際に出陣している。

この流れのなかに、信康や築山殿を交えた家族会議を開く余地も、信康を力づくでも逃がそうとする余地も、家康が信康の死にショックを受けて寝込む暇も、なかったとしか思われないのである。

信康公の霊廟
静岡県浜松市天竜区二俣町二俣にある浄土宗の寺院「信康山 清瀧寺」にある徳川家康の嫡男、信康公の霊びょう(画像=ホンダ/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

1年前から信康を危険視

では、なぜ信康は処断されなければならなかったのか。前出の平山氏が、『三河物語』『松平記』『岡崎東泉記』などに書かれた内容を簡潔に抽出しているので、引用したい。

「①信康が尋常でない荒い気性の持ち主であったこと。/②鷹狩りに出た時に、成果が出ず苛立ち、たまたま出くわした出家に八つ当たりをして、無残にも殺害したこと。/③踊りが下手だったというだけで、町人を弓で射殺したこと。/④築山殿が、武田方と内通し、信康にもこれに同調するよう勧誘したこと。/⑤しかもこれを知った家康が、信康を訓戒したもののまったく聞く耳を持たなかったこと」

五徳がこうした内容を書いて信長に送ったとされており、その時期を黒田氏は、天正5年(1577)12月か同6年1月、信長が鷹狩りの際に岡崎城に立ち寄ったときではないか、と推定する。そうであれば、信康が自刃する1年数カ月前には、信長の耳に届いていたことになる。

『家忠日記』によれば、信長が岡崎城に立ち寄った直後の天正6年(1578)2月9日、信康は岡崎衆になんらかの働きかけをし、10日には直接、家忠を訪ねている。これは追い詰められた信康による多数派工作だったと思われる。

むろん、家康はそれを放置せず、同じ年の9月、すなわち信康が自刃する1年前に、岡崎城下にいる三河衆をすべて本拠に帰させた。そのときにはすでに信康を危険視し、家臣団と切り離そうとしたのだと考えられるのだ。