1人当たりの公園面積はたったの0.3坪だった

無計画な市街地の拡大に加え、関東大震災の被害を大きくした一因が、公園の少なさです。日比谷公園、浅草公園、上野公園など33の公園がありましたが、関東大震災前の公園事情は極めて悪かった。

インタビューに応じる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授
撮影=プレジデントオンライン編集部
インタビューに応じる名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授

東京市のひとりのあたりの公園面積は0.3坪。ロンドンの2坪半、パリの2坪、ワシントンの16坪という数字を比較すると東京の公園の面積がいかに狭いかが分かるでしょう。

明治政府の市区改正計画では49カ所の公園の整備計画が立てられましたが、実現していなかったのです。

――公園の整備が進まなかった理由はなんですか?

市民が必要を感じていなかったのも原因のひとつです。そんな市民の意識を関東大震災が変えました。「浅草の観音様にも公園があったから何万人が助かった」とか「上野公園で何万人が助かった」とか「深川では岩崎さんの別荘があったからたくさんの人が救われた」とか……非常時の避難場所としての公園に注目するようになったのです。

「ロンドンやパリのような品格を持つ首都を」

明治以降、一貫した思想がないなかで街づくりが進みました。悪い地盤の上に、区画整理もせず、道路も公園もつくらずに人口が集中する町が無計画にできてしまった。その結果、関東大震災の被害が拡大した。その反省に立って立案されたのが、「帝都復興事業」です。

「帝都復興事業」にたずさわったアメリカの歴史学者ビーアドは「西洋の猿真似ではない、ロンドンやパリのような品格を持つ首都にしなければならない」「日本建築を取り入れた日本固有の帝都を建設する必要がある」と語っています。そうすれば、復興後に観光の役にも立つ、と。

もちろん目的は、関東大震災からの復興です。耐震、耐火の街づくりが前提としてありました。防災と言うと自然災害から市民の命や生活を守ればいいと考えられがちですが、防災は街を守りたいという人たちの思いから生まれると考えれば、ベースには市民が誇りを持てる品格ある街である必要があったわけです。