100年前に起きた関東大震災では、10万5000人が亡くなった。このうち東京での死者は6万8660人だったが、家屋倒壊などで亡くなったのは4%(2758人)で、ほとんどは焼死だった。『関東大震災がつくった東京』(中央公論新社)の著者で名古屋大学減災連携研究センターの武村雅之特任教授は「東京の杜撰な都市計画が、火災による被害を広げてしまった」という――。(聞き手・構成=ノンフィクションライター・山川徹)(第2回)

犠牲者10万5000人を生んだ明治政府の罪

――『関東大震災がつくった東京』では、いまの東京の原形が関東大震災後の「帝都復興事業」によって形作られたと指摘されています。

明治以降、東京は道路や公園などの整備を行わないままに人口が集中する木造家屋が密集する地域を放置し、拡大を促進してきました。

明治政府の都市政策の誤りが、東京市(現在の東京23区に相当)だけで30万を越す焼失世帯を生み出し、68660人もの犠牲者を出す原因となりました。

関東大震災全体の犠牲者は約10万5000人。首都圏全域が揺れたにもかかわらず、約65%の犠牲者が東京市で出ています。しかも東京市15区の最大震度は、本所区(現在の墨田区南部)の震度6強。一方、神奈川県のほぼ全域や千葉県南部は震度7を記録し、相模平野や足柄平野、鴨川低地では家屋の全壊率が100%に達した自治体もありました。対して東京市全体の全壊率は7.8%に過ぎません。

なぜ、これほど東京で被害が拡大したのか。

それは、火災による犠牲者が増えたからです。東京15区では揺れによる圧死者が2758人だったのに対して、焼死者は65902人。実に犠牲者の96%が焼死者だったのです。

最大の人的被害を出したのが、本所区(現在の墨田区南部)の陸軍被服敞跡地です。広大な空き地だった被服廠跡には、約4万人もの被災者が家財道具などを持って避難していました。やがて被服廠跡に達した火の粉が次々と家財道具に燃え移り、火災旋風(火災によって発生する竜巻)が発生しました。避難者の多くは一酸化炭素中毒になり、一部は炎もろとも上空に巻き上げられ、命を落としたと言われている。犠牲者は、避難者の約95%、3万8000人に達しました。

「帝都復興事業」は、関東大震災の反省に立って、計画されたのです。

――明治政府は都市政策でどんな誤りを犯したのでしょう。

明治時代も戦後の東京における乱開発と似たようなことが起きているんです。