「国際調査、広報、研修」に配属されるのが一般的だった

戦後、女性の事務次官が2人しか誕生していないのは、いかに官僚の世界が男社会で回ってきたかを示す恰好の事例だ。では、なぜ、女性に次官への門戸が開かれなかったのか。根源的な要因を、人事院出身の嶋田博子京都大学公共政策大学院教授(人事政策論)に尋ねた。

官僚人事一筋の役人人生を送ってきた嶋田に対し、やはり霞が関における女性の位置づけから見解を聞いてみたいと思った。「戦後、女性次官はたった2人」の月並な質問については、「次官連絡会議メンバーである消費者庁長官も女性が歴代務めていますし、肩書きは違っても次官級ポストまで含めれば女性のトップはかなり出ています」と、やや矛先を変えて答えを返した。

本書が「事務次官」をメインテーマに据えていることを改めて伝え、女性次官のあまりの少なさを問うてみると、それは当然至極なことといった表情で話を続けた。

「確かにそうですが、そもそも私たちがI種試験を受けた30数年前は、女性をほとんど採っていませんでした。たとえ試験に合格しても、大きな役所は面接段階で門前払いの状態だった。女性を採用した場合でも、最初から次官候補とは見ていなくて、いわゆる3K要員とみなすのが当たり前と考えられていた時代だったのです」

インタビューを受けるアジアの女性の手
写真=iStock.com/kazuma seki
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「3K? きつい、汚い、危険な職場、という意味ですか?」
「いいえ、ここでいう3Kは、国際調査、広報、研修の3つの部門を指します。もちろん省ごとの応用形もあります」

40代半ばの人たちは普通に育ってきている

つまり女性キャリアは、これら3部門に象徴される特定分野に回されることが多かった。政治家と丁々発止、政策論議を戦わすのは男性の仕事で、女性はいわゆる日本的な根回しの少ない、3K職場に配属されるのが一般的だったというのである。

将来の事務次官を期待される男性とは、スタートから異なる物差しで採用され、育成方法も別枠の扱いを受けていた。そうした人事が数十年近く続いたなか、掛け声だけは「女性登用」を叫んでも、それにふさわしい人材を育てていないのが実態だったのだ。

だが、時代は少しずつ変化している。本格的に人材を育てるには30年かかるといわれるが、女性の活躍を促すさまざまな施策が徐々に実を結び始め、「1990年代に入った女性キャリアから、3Kでない職場に配属されるケースが増えてきた。今の課長級の人たちはバランスよくポストを回っているし、年齢で言うと40代半ばの人たちは普通に育ってきていると思いますね」と、嶋田は霞が関に広がる変化の兆しを指摘した。