なぜか進撃してこない信玄、反撃できない家康
家康は信玄に三方原合戦で大敗を喫してしまった。しかもそれは偶発的に生じてしまったものであった。家康としては、武田軍とは圧倒的に戦力差があったため、正面切っての合戦を回避する方針であったと思う。ところが偶発的に合戦におよんでしまい、しかも大敗してしまったのである。そのためすぐの反撃は難しい状況になったに違いない。ところが武田軍は、合戦後すぐに動くことなく、10日も在陣を続けた。おそらく気賀の刑部においてであろう。そしてそこで越年してしまうのである。
そもそも信玄は、二俣城を攻略してから20日ほど、何の行動も示していない。そして合戦後も10日ほど動いていない。それはいうまでもなく、信玄の病状が悪化していたためとみてよかろう。また刑部に在陣を続けたのは、家康の出方を探るためであったろう。
「当代記」にも、浜松城は家康の本拠のため、攻略には時間がかかることが見越されていた。信玄は、家康が反撃に出てくることはないと確信したことで、年明けになって行動を開始することにしたと思われる。
そこでの行動についても「当代記」に詳しい。明けて天正元年(1573)正月3日に進軍を開始した。三方原合戦から11日後のことであった。刑部での在陣はちょうど10日ということになる。その日、井伊谷領井平(浜松市)を通って三河に入り、野田城の攻撃を開始した。しかし攻略には時間を要し、攻略したのはそれから1カ月以上が経った2月17日のことであった。
病床の武田信玄は甲斐へ戻ろうとするが途上で死去
これをうけて信玄は、長篠城に入った。この長篠への移動について、後退したとみる考え方もあるが、奥三河衆の人質をこの長篠城に集めていること、野田城についてはその後、廃城にしていることからすると、信玄は奥三河における拠点に、この長篠城を位置付けたと考えられるであろう。
信玄がそこからどのように軍事行動しようと考えていたのかはわからない。信玄は3月12日には、奥平家の作手城、田峯菅沼家の田峯城(設楽町)や武節城(豊田市)などに在城衆を置いたうえで、甲斐への帰国の途について退陣したようである。軍勢も16日には信濃に向けて退陣したらしい。その状況は、「一円隠密」で、「物紛れに退く」ものであったという。しかし信玄の病状は極めて悪化していたのであろう、甲斐に帰国するまでその生命はもたず、その途上で、4月12日に信濃伊那郡駒場(阿智村)で死去してしまった。