「先の先」を見る鍛錬の極意

いまここであなたが誰かに急に殴りかかられたとしたら、どう反応するだろう。拳を手で払って相手の体のバランスを崩しながら、その側面に体を移動させて、一気に組み伏せる――。

しかし、よほど修練を積んでいる人でないと難しいはずだ。たいていの人は「あっ」と驚いたとたんに何も考えられず、体が硬直化してしまうのが落ちである。そのように足裏が床について動けないような状態のことを、武道の世界では「居着き」という。

私たちは日常生活のなかでも心理的なストレスを受けると、心身の能力が低下する。たとえば、予想もしなかったことで上司から突然叱責を受けて身がすくむ思いをして、「頭のなかが真っ白になった」という経験を持っている人も少なくないだろう。それも居着きなのだ。

神戸女学院大学 名誉教授
内田 樹

1950年生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院博士課程中退後、同大学人文学部助手などを経て教授。2011年より名誉教授。専門はフランス現代思想、映画論、武道論。主な著書に『日本辺境論』『下流志向』『街場の教育論』など。

そんな思考停止状態の一種ともいえる居着きを防ぐためには、どうしたらよいのか。『日本辺境論』など数々のベストセラーを世に送り出す一方で、合気道の師範として多くの道場生に稽古をつけている神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏は、「危機的状況に直面しても身体能力を下げない『胆力』を鍛えることが大切。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、自分から驚いてしまえばいいのです」という。

普段、私たちは胆力のない人を「驚かされやすい人」「びっくりしやすい人」と考えている。しかし、武道の世界では胆力についてもう一段深いところで考察する。普段何か変化があっても、ついそれを見過ごしてしまう。やがて、その変化が限界を超えていきなり身に降りかかってきたとき、一気にパニック状態に陥る。そのようにして胆をつぶしてしまう人のことを「胆力のない人」と見るのだ。

「『驚かされる』ことは受け身の姿勢だから、胆がつぶされてしまう。逆に『驚く』ことは能動の姿勢で、そういったことが起こりません。では自ら驚くためにはどうするのかとうと、身の回りで起きた小さな変化に対して『へぇー』『ほぉー』と敏感に反応していけばいいのです。その段階なら打ち手はいくらでも出てきて、十分に対応できるでしょう」

武道の世界で「名人」「達人」と呼ばれる人は判で押したような生活を送るものだという。なぜかというと、日常生活のなかに起きる小さな変化を読み取る感覚を研ぎ澄ますことができるから。

東郷平八郎元帥は、あるとき道を歩いていて荷馬がいるのを見て、道の反対側にさっと回って避けたそうだ。すると、そばにいた人が「武人のくせに、荷馬ごときを恐れるとは」と笑った。しかし、東郷元帥は「どんなおとなしい馬でも、何かのはずみで狂奔するかもしれない。道を迂回すれば、無事を保てる。荷馬に蹴られて務めに支障が出ることこそ、武人の恥ではないか」とすましていたという。