夫婦だけで守り通そうとした出生の秘密

1972年に結婚した当時、私は18歳で夫は23歳でした。夫の両親からは、いつ子供ができるのかと言われ続けていました。「母親になりたくないのか?」「なぜ妊娠しないのか?」としょっちゅう言われたものです。孫の顔を見せることができなくて、私はいつも暗い気持ちでした。夫は4人きょうだいでたった一人の息子でしたから、両親はよけいに彼の孫がほしかったのです。

1977年から2年間、主治医の助けを借りて基礎体温を測りながら妊娠しようと試みましたが、うまくいきませんでした。そこで夫の精子を検査したところ、彼が無精子症だと判明したのです。主治医にすすめられて養子をとる手続きに入りましたが、実際に縁組が決まるまでには7年ほどかかると告げられました。

いよいよ最後の手段として、精子提供プログラムの説明を受けたのは1982年の暮れのことです。84年にキムが生まれたその日に、私たち夫婦は彼女の出生の秘密について、2人だけの間で守り通すことを誓い合いました。当時、夫と私は、自分たちが用いた手段が長い年月を経て、私たち家族に及ぼしうる影響や、やがて子供たちの心に現れる予期しない結果について、思いをめぐらせることはありませんでした。

黒板にかかれたクエスチョンマーク
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精子提供者が誰なのか答えられない

キムたち2人が成長するにつれ、生物学的につながりのない夫とあまりにも似ていないことが徐々に明らかになってきました。特にキムは、180センチと一人だけ飛び抜けて身長が高かった。私たちは、キムが生まれる前に他界した私の父に似ている、などと言ってごまかしていましたが、彼らが10代になると、ますます夫との容姿の違いや、姉弟同士の違いが明確になり、それらの違いがどこから来るのかとたびたび訊ねられるようになりました。

キムに対してはいまだに、彼女のアイデンティティの半分を形成している精子提供者が誰なのかという、彼女の人生にとって最も重要な疑問に答えられずにいます。そのことに対する後ろめたさが、私の中で消えることのない罪悪感となっているのです。