「この人たちは誰?」「ばか騒ぎはやめて」

「パゾット家のチェントロ」から「コミュニティーのチェントロ」へ変わるまでの道のりは平坦ではなかった。1985年にチェントロが設立された当初、パゾット家は完全によそ者扱い。パゾット夫妻はミラノで活躍していた都会人であり、チェントロ設立に合わせて一家で移住した経緯があったためだ。

そのうえ、夫妻はミラノではそろって大学教員であり、ルーラル経済を支える農業とは無縁だった。国際的でもあったことからなおさら浮いていた。夫がイタリア文学を研究するイタリア人だったのに対して、妻は科学英語を専門にするイギリス人だった。

大都会から隔絶され、英語もめったに耳にしないイタリアの片田舎。ここに大都会から国際的一家がやって来て、突如として大勢の留学生を呼び込み始めれば、必然的に地域コミュニティーに警戒心が出てくる。

実際、最初のうちは不安の声が相次いだ。「この人たちは一体誰?」「ここで何をやっているの?」「ばか騒ぎだけはやめてほしい」――。中には「よそ者に侵略されている」と感じる住民もいたようだ。夫妻の一挙手一投足に注目が集まった。

一家が大都市ミラノを離れた2つの理由

家業を継いだミラノ生まれのジョバンニ――上から2番目の子ども――は幼かったこともあり、当時のことはあまり覚えていない。地元で有名人となった現在、どう思っているのか。

「田舎でいきなりコミュニティーの一員になるのは無理です。われわれは大都会からやって来て、毎年何百人もの外国人を呼び込んでいたのですから、なおさらです。私の両親は長年かけて一歩ずつ進み、やっとのことで信頼を勝ち取ったんですよ」

もともとイタリア北部の大都市ミラノでキャリアを積んでいたパゾット夫妻。どうしてウルバーニアへ移住したのか。

夫妻が大家族を夢見ていたからだ。すでに子どもは就学前のジョバンニも含めて3人(ウルバーニア移住後にさらに3人生まれて子ども6人の大家族になる)。物価が高くて住居が狭いミラノは最適とはいえなかった。

それだけではない。職業の「教育」にパゾット家の「国際性」を掛け合わせて新しいビジネスをやってみたいという思いもあった。要するに、大家族をつくると同時に「大学発ベンチャー」を立ち上げて新たなスタートを切ろうとしたわけだ。