私の知る稲盛氏は、ギラギラと脂ぎった野心家だった。私は92年、「サイレントマジョリティー(物言わぬ多数派)の国づくり」を掲げて、平成維新の会を立ち上げた。政策提言のための勉強会を毎月開催していたが、その常連メンバーであり、95年に都知事選に出たときに面倒を見てくれたのが、稲盛氏だった。

稲盛氏は財界活動に熱心だった。当時の京セラは、経団連に名を連ねる企業と比べても破竹の勢いで伸びていた。すでに関西を代表する経営者となっていた稲盛氏は、中央に攻め上る気持ちで東京に出てきたに違いない。

ところが、「財界総理」になるという野心は大手町文化に跳ね返された。経団連の連中は東大卒ばかりで、東大でなければ話にならないという傲慢さがあったという。鹿児島大学卒の稲盛氏は、「田舎の無名大のやつに経団連会長が務まるわけがない」と鼻であしらわれてしまった。

その後、得度した背景には、財界での露骨ないじめ体験があったからだと思う。中央で偉くなるという野心をあきらめて、自分なりの道を探そうと仏門に帰依したのだ。

ある政治家に天下を取らせようと骨を折り続けた

ただ、自身の天下取りをあきらめた後も、野心を捨てたわけではなかった。自分の代わりに、ある政治家に天下を取らせようと骨を折り続けた。その政治家とは、小沢一郎氏である。

稲盛氏には“独占的”な存在を倒したいという気概があった。その思いとビジネスセンスが結びついたのが、84年の第二電電の設立だ。アメリカでは84年、通信を独占していたAT&Tが分割された。その様子を見て、日本でも日本電信電話公社(現NTT)の牙城に挑戦することを思い立った。

ただ、新しい通信会社の設立には、電波の割り当てや許認可で行政を動かす必要がある。当時の自民党の中で通信の世界にも競争を取り入れるべきだと理解を示したのが、党内で力をつけつつあった小沢氏だった。小沢氏の働きで第二電電の設立に漕ぎつけた稲盛氏は、以降、小沢氏のシンパとなり、自民党を離れた後も陰のスポンサーとして応援し続けた。

小沢氏が民主党に移ってから、稲盛氏から一本の電話がかかってきたことがある。いつも私に用があるときは、秘書の大田嘉仁よしひと氏が電話をかけてくる。稲盛氏から直接の電話は、非常に珍しい。何かと思ったら、用件は小沢民主党の応援だった。

「重要な局面だ。民主党の応援をしたい。日経新聞の一面をキープした。あなたと私の名前で広告を出そう」