「平均から外れている人」マイノリティーを無視・軽視

彼らは全体から見ればマイノリティーである。学級の中で最も背丈の低い子どもは、1人しかいない。かつての男女別の2列であっても、学級で2人である。あとは、「2番目、3番目で、いつ自分が一番前になるか」と戦々恐々としている子供も加わるかもしれない。

逆に、背が高いがゆえに後ろで苦痛を感じている人もいる。「平均から外れている人」というのは、いつだってマイノリティーの側である。

実際、筆者が聞き取りした際、以下のような小学生の声があった。

「いつも一番前なのも嫌だし、時々、悪口を言われることがあるのもつらい」(男子)
「背が高いことを気にしているのに、並ばされて一番後ろだと余計に目立つから嫌」(女子)

こうしたマイノリティーの意見は気にしすぎであり、我慢すべきなのだろうか。「私は背が低い(高い)ことなんて気にしたことがない」「背の順でよかった」という無邪気な肯定派の人に、自らの気持ちを我慢して合わせるべきなのだろうか。

筆者はそんなはずはないと考える。すべての人の気持ちが、尊重されるべきである。それは、性的マイノリティーと言われてきた人々の人権が認められてきたことをみても明らかである。

少なくとも、日本の特殊な慣習であることを直視する必要がある。ダメな点がわかっていても無理に理屈をつけてなかなか変えようとしないのは、単なる無思考・怠慢である。

松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)
松尾英明『不親切教師のススメ』(さくら社)

苦しんでいる人がいるとわかったから、変えよう。筆者の主張はただそれだけである。もちろん周囲には筆者と同じ意見を持つ教員や保護者も多い。彼らも日本における「背の順」意識の植え付けは人間形成上よくないと考えている

それでも、批判する人にも理屈はあるだろう。その典型が「そういうこと(背の順が差別)を言うから差別になるんだ」というお叱りの言葉である。つまり「寝た子を起こすな、現状のままでいいではないか」ということである。

この反論に対し、次のように考えることはできないだろうか。