参勤交代にともなって久留米からやってきた神様

水天宮の発祥は九州の久留米藩(現在の福岡県久留米市)だ。9代目久留米藩主の有馬頼徳が、1818年、自家で祀っていた水天宮を三田赤羽の上屋敷に分祀した。この屋敷は東京タワーの足下付近にあった。現在、都立三田高校、港区立赤羽小学校、港区保健所などがある界隈だ。2万坪を大きく上回る邸内の一角に、水天宮の分社が建てられた。

「赤羽根向水天宮」
「赤羽根向水天宮」(『江戸の花名勝会』1863年刊を加工して作成/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

こうした屋敷神はその家のプライベートな神であり、一般公開は前提としていない。だが江戸時代には、無数の神仏が突然に参拝客を集める「はやり神」現象がたびたび見られた。有馬家の水天宮も江戸庶民の評判を呼び、屋敷の塀越しにお賽銭が投げ込まれるようになる。その結果、日にちを限って、一般開放されるようになったのである。

時代が江戸から明治になると、水天宮も変化する。まず三田から青山に遷され、その後の1872年、有馬家の中屋敷があった現在地に鎮座した。前述の谷崎『少年』の語り手である「私」も通学していた水天宮近くの有馬小学校はその名残である。そして、現在の宮司も有馬家17代目当主が務められている。

抽象的な最高神よりも悲運の幼帝

ある神仏が流行する理由の1つは、言うまでもなく、そのご利益や霊験にあるだろう。水天宮に祀られるのは、天御中主大神あめのみなかぬしのおおかみ、安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼の四柱である。

安徳天皇
安徳天皇(『東錦絵百人一首』/国立国会図書館デジタルアーカイブより)

このうち、天御中主大神は古事記で最初に登場する神々のうちの一柱だ。天地開闢かいびゃくに関わる神ともされる。本居宣長や平田篤胤のように、天御中主大神を神々の最高位に位置づける見解もあるが、見方を変えると、最高神であるがゆえに具体性を欠き、日常的なご利益と結びつきにくい神とも言える。

一方、残りの三柱は実在の人物だ。安徳天皇(1178〜1185年)は、歴代天皇の中でもっとも短命な天皇である。平家の滅亡を決定づけた壇ノ浦の戦いで、祖母である二位ノ尼(平時子)に抱えられて海中に身を投じた。現在で言えば6歳くらいである。そして、安徳天皇の母親である建礼門院(平徳子)は生き延び、出家して平家一門と安徳天皇の菩提ぼだいを弔ったと伝わる。

「波の下にも都がございます」という祖母の言葉に導かれて入水した安徳天皇の最期は、『平家物語』というメディアを通じて広く流布された。民衆の心に訴えかけるのは、抽象的な最高神より、世の中の道理も分からないまま、幼くして亡くなった悲運の幼帝だろう。こうした由来から、水天宮は、船舶の守護や水難除けの神社として知られるようになる。