「金鳥の蚊取り線香」を生み出したのは和歌山県のミカン農家だった。一体、どんなきっかけがあったのか。経済ジャーナリストの田宮寛之さんが解説する――。

※本稿は、田宮寛之『何があっても潰れない会社 100年続く企業の法則』(SB新書)の一部を再編集したものです。

蚊取り線香
写真=iStock.com/TinaFields
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もともとはミカンなどを栽培する農家だった

大日本除虫菊株式会社(以下、大日本除虫菊)。この社名から、日本に暮らす人なら誰もが知る製品が瞬時に思い浮かぶ人は、あまり多くはないだろう。

その製品とは、通称「金鳥の蚊取り線香(正式名称は「金鳥の渦巻」)」である。

「金鳥の夏 日本の夏」という、よく知られるキャッチコピーは実に半世紀余りにわたり使用されてきた。このひと言を聞くと、多くの人が「今年も夏がやってきたんだな」と感じる、これはもはや一製品の宣伝を超えた「日本の夏の風物詩」といってもいいだろう。

その他、「かとりマット」「キンチョール」「虫コナーズ」「ゴン」──蚊取り線香のみならず、大日本除虫菊は日本人に長年親しまれてきた数々の殺虫剤、防虫剤を世に送り出してきた。137年もの歴史を持つ老舗企業であり、今なお業界をリードし続けているトップ日用品メーカーだが、その出自は意外なところにある。

大日本除虫菊の前身は、1885年(明治18)、和歌山県有田郡(現在の有田市)で創業された上山商店だ。商店といっても商材は物品ではない。上山家の家業は、すでに300年以上も続いていた上山柑橘園、つまりミカンなどを栽培する農家だった。

蚊取り線香開発のきっかけは、ミカンの輸出業

当時、明治政府は輸出を奨励していた。近代化にかかるコストを補うには、輸出で外貨を稼ぎ出すしかない。すでに日本は生糸の輸出国として欧米に知られていたが、他にも欧米に売れそうなものがあれば何でも輸出せよ、という気運が高まっていた。

こうして海外に広く門戸が開かれた時代に、上山家の四男である英一郎が、上山柑橘園のミカンを輸出しようと設立したのが上山商店である。大日本除虫菊のスタートは、ミカンの輸出業だったのだ。

上山商店初代社長となった英一郎は、ここから不思議な縁に導かれるようにして、蚊取り線香の開発に至る。

上山商店の設立と同年、アメリカ・サンフランシスコで植物会社を経営するH・E・アモアという人物が来日した。慶應義塾に学んだ英一郎は、恩師・福澤諭吉にアモアを紹介され、実家の上山柑橘園を案内した。そしてアモアの帰り際には上山柑橘園のミカンに、竹や棕櫚しゅろ、葉蘭、秋菊など日本特有の植物の苗を添えて渡したという。

アモアと知り合ったことがアメリカの販路開拓・拡大につながれば、という考えが英一郎にあったことは想像に難くない。もとより上山商店のミカン輸出業は順調に滑り出していたようだが、一方、アモアとの縁はまったく別の果実を英一郎にもたらした。