一昨年に亡くなった野村克也監督。彼には、幼少期からプロ野球選手になるまでの知られざる苦労があった。『野村克也全語録』(プレジデント社)の解説を担当したライターの長谷川晶一さんが書く――。
ヤクルトのOB戦のベンチで談笑する元監督の野村克也氏(右)と古田敦也氏=2019年7月11日、神宮球場
写真=時事通信フォト
ヤクルトのOB戦のベンチで談笑する元監督の野村克也氏(右)と古田敦也氏=2019年7月11日、神宮球場

あまり知られていないプロに入る前の「名将」の姿

野村克也が亡くなってから丸2年が経過し、早くも三回忌を迎えることとなった。現役時代には南海ホークスの中心選手として三冠王を獲得。選手兼任監督として1973(昭和48)年にはパ・リーグ制覇を果たすなど、数々の輝かしい実績を残している。

一方、指導者としては南海を皮切りに、ヤクルト、阪神、楽天、社会人のシダックスで監督を務め、90~98年のヤクルト時代には4度のリーグ優勝、3度の日本一となり、「名将」としての地位も確立している。

数々の野球人を残し、そして「固定観念は罪、先入観は悪」「凡事徹底」「小事が大事を生む」など、多くの名言を残し、死してなお、その存在感は大きくなっているように思える。

しかし、「野球人・野村克也」については誰もが多くのエピソードを記憶しているものの若い頃の彼についてはあまり知られていない。彼はどうしてプロ野球選手を目指したのか。どうして無名の弱小高校出身の彼がプロ野球の世界に飛び込んだのか。

三回忌を迎えた今、本稿では野村克也の「プロ入り前史」を改めて振り返ってみたい――。