マーガリンの販売を抑制しようとしたバター業界

アメリカでは、メージュ=ムーリエが同国の特許を取得した1873年以降、一挙にマーガリン生産が広まり、1880年代までに少なくとも80のマーガリン生産工場があったといわれている。マーガリンの主原料は、バターと異なり牛乳ではなく牛脂だったため、食肉加工業大手のアーマー社やスウィフト社らもマーガリン生産に乗り出した。これらの食肉業者は、マーガリン生産のみならず、牛脂を他のマーガリン製造業者に販売し、原料供給者としての役割も担っていた。

マーガリン消費量が拡大したヨーロッパ諸国とは異なり、生産開始後もアメリカでは依然としてバターの需要が高かった。マーガリン消費量が初めてバター消費量を抜いたのは1957年のことである。それにもかかわらず、バター生産者らは、1ポンド(約450グラム)当たり10から20セント程度安く販売されたマーガリンに市場を奪われることを恐れ、マーガリン業者に激しく反発した。そして、酪農業者協同組合や州・連邦政府とも協力し、マーガリンの生産や販売を阻む施策に乗り出したのである。

当時、酪農は、アメリカの農産業の中で特に強い力を持っていた。酪農生産者、卸問屋や小売店など関連業者を合わせると全国でおよそ500万人もが従事する一大産業で、政府に対するロビー活動の圧力は強力なものだった。マーガリン生産が始まった19世紀末のアメリカは、重工業が発展しつつあったものの、依然として農業国であり、特にウィスコンシンやニューヨーク、ペンシルベニア、ミネソタなど酪農が重要な産業となっていた州では、政府も酪農生産者らに同情的で、新興産業であるマーガリン業者への風当たりは強いものであった。

こうした州では早々にマーガリン規制法が制定され、生産・販売を禁止する州も出てきたのである。

「自然な黄色はバターだけのもの」という主張

マーガリンを規制するにあたって、バター業者らは、偽装販売から消費者を守ることを理由にその取り締まり強化の必要性を主張した。マーガリンの販売が開始された当初、マーガリンもバターも現在のように個包装されていたわけではなく、小売店のカウンターに置かれたマーガリンもしくはバターの塊から、客の注文に応じて必要な分量をとり販売する方法がとられていた。そのため、生産工場から小売店に運ばれた後は、消費者の目にはマーガリンもバターも同じ黄色い塊にしか見えず、区別することができなかったのだ。

小売店の中には、バターの方が価格が高いため、安いマーガリンを仕入れ、バターと偽って販売する者も出てきた。酪農業者らは、バターとの違いが一目でわかるようにするため、マーガリンを別の色で販売するよう法律で義務づけるべきだと訴えた。

さらにバター生産者らは、「自然が作り出す黄色」はバターの「トレードマーク」であるとして、バター生産者が「占有する権利」を保持しており、バターの代替品、模造品として作られているマーガリンにはその黄色を使う権利はないと主張したのである。

これに対しマーガリン業界は猛反発した。そもそもバターの色も、必ずしも「自然な」状態のものではなく、特に冬場は着色されることが多かった。だがバターの着色を規制する法律はなく、マーガリン生産者らは、マーガリンの着色のみ規制するのは不公平だと訴えた。そして、もしバターの黄色が自然のものであるならば、誰も自然を所有する権利はなく、尚更バター生産者のみが独占すべきではないと反対したのである。

バター生産者のみならず、マーガリン生産者、さらに多くの消費者の間では、バターの「本来」の色は明るい黄色だという認識が強かった。そのためマーガリン業者および酪農家ともに、バターの代用品であるマーガリンは黄色以外(つまりバターには見えない色)では売れるはずがないと考えていた。すなわち色を規制することは、マーガリンの競争力低下とその生産・販売規制を意味していた。こうして、色がバターとマーガリンの対立の最重要争点の一つとなっていったのである。