今日と明日の自分はまったく違う存在

<strong>青山学院大学教授 福岡伸一</strong>●京都大学助教授などを経て現職。専攻は分子生物学。著書に『動的平衡』などがある。
青山学院大学教授 福岡伸一●京都大学助教授などを経て現職。専攻は分子生物学。著書に『動的平衡』などがある。

フェルメールというオランダの画家が好きです。現存する中で最も古い作品は「マルタとマリアの家のキリスト」という絵ですが、この作品は新約聖書に記された次の逸話に題材をとっています。イエスはあるとき、熱心な信徒であった姉妹、マルタとマリアの家に招待されました。姉マルタがイエスをもてなすため忙しく立ち働く一方、妹マリアはイエスの足もとに座り、じっと話を聞いていた。見かねたマルタがイエスに「妹に私を手伝うよう言ってください」と頼んだところ、イエスはこう答えました。「マルタ、あなたはいろいろなことに気を配り、心を使っているが、大切なことはわずかしかない。マリアは善いほうを選んだのだから、それを取り上げてはならない」(ルカによる福音書)と。

大切なお客様のために少しでも早くご馳走を準備したかったマルタ。でもイエスに言わせればそれは取るに足りないこと。大事なのはただひとつ、自分の話に耳を傾けることだと言っているのです。マルタは、何が大切なのかも見極めないまま目の前の仕事をこなそうとする悪しきスピード主義、効率主義にとらわれていました。

ほとんどの現代人が同じ“病気”にかかっています。一定時間におけるパフォーマンスの最大化を目標にする考え方です。1日、1週間単位でノルマを決め、着実に実行することはビジネスで成功するためには欠かせないかもしれませんが、生命現象を観察している立場から申し上げると、一片のむなしさをそこに感じてしまいます。

生命は常に揺らいでいます。押せば押し返しますし、引っ張れば逆に引っ張り返そうとします。情報とエネルギーを投入し、あるとき効率がアップしたとしても、別の個所でダウンしてしまう。

常に変わりつつ一定の状態を保つのが「生物」
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常に変わりつつ一定の状態を保つのが「生物」

私が専門にしている分子生物学は20世紀半ばから勃興した学問ですが、初めの約50年間の主要な研究テーマは、たんぱく質や遺伝子をつかさどる情報が「いかにつくられるか」でした。この10年、それがある程度解明されてくると、もっと大切なテーマが見えてきました。そういう生体情報がいかに壊されるか、です。たとえば人間の体内でたんぱく質が合成される方法はただ1通りなのに、逆に分解される方法は10通り以上あります。