共闘してやっと勝てても、数字上のマジックにすぎない

東京8区に「れいわ新選組」の山本太郎氏が立候補すると表明したが、さまざまな事情があり山本氏は立候補を取り下げた。その過程で、立憲民主党との軋轢があったやに想像できる。「わいわ」の議席は参院2議席にとどまっており、国勢に対して大きな影響を持たないものの、立憲が野党共闘の相手とするには政策的には近似性がある。

しかしこの期に及んで、「内紛」が表面化しているようでは共闘への疑問符を有権者が持つのは必定である。もし仮に、野党第一党である立憲民主党が、人的齟齬、政策的齟齬を度外視して他政党と共闘するというのなら、それはやめた方が良いのではないか。共闘してやっと勝てる選挙区があったとしても、それは数字上のマジックであり、いつ奪還されるか不明である。そんなものに政党生命の全てをなげうって共闘するのはリスクが大きすぎる。

リベラルは自虐に走る必要はない

野党がやるべきなのは、ただ愚直にリベラルの価値観を有権者に伝播し、それに共感した人々を一人でも多く投票所に向かわせることで、数の上での共闘ではない。何度も繰り返すが、市民革命を経験していない日本の政治風土は基本的に保守的で、リベラルが劣勢であることを前提としているため、既存保守政党に勝つことが難しいのである。これを踏まえたうえで、リベラル的価値観を地道に、それこそ地方議会の段階から波及させていくことが最も重要なのであって、09年の政権交代を「成功体験」として模範にする必要も実はないのである。

野党やその支持者にとって重要なのは、「私たちリベラルは間違っていたのではないか」という、近視眼的な自虐と自己批判をしないことである。ウェーバーのいうように「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業」だとすれば、根が保守的にできている戦後日本の政治風土をリベラルに塗り替えていく作業は間違いなく難事業である。しかしその難事業を継続する情熱がなければ、新政権交代など起こりえない。

「リベラルは間違っていたのではないか」という自虐に走る必要はない。家父長制の批判、男尊女卑への批判、LGBTへの権利擁護の拡大など、所謂リベラル的価値観は永年の運動や啓発のかいがあって、着実に日本社会に定着しつつある。ただしその定着速度が遅いというだけで、実際には成功しているのである。

政治改革には時間がかかる。市民革命を経験したことがなく、漫然と民主主義を享受している戦後日本にあって、戦前から継続される保守的風土を突き動かすのは容易なことではない。しかしその風土そのものの土壌を改良することによってのみ、活路が開かれる。刹那的な票読みだけで野合するというのも間違いである。立憲民主党単独の力だけで少なくとも衆院で200議席を恒常的に維持できないと、共闘しても空中分解するだけである。