この新聞記者逮捕をめぐって賛否両論が渦巻く中、「逮捕は当然。記者は特権階級ではない」と指弾する意見を受け入れたと取られてもおかしくなかった。

建造物や住居への侵入罪は、狭山事件(※)の被告支援ビラを撒いた吉祥寺駅構内ビラ配布事件(1976年)や自衛隊官舎に反戦ビラを配った立川反戦ビラ配布事件(2004年)のように、政府批判の運動を抑止するための「権力の便利ツール」に使われたとみられるケースがままある。

※編集部註:1963年に埼玉県狭山市で女子高校生(当時16歳)が行方不明になり、その後遺体となって発見された事件。この事件で逮捕され、無期懲役が確定した石川一雄氏は冤罪を主張し、第3次再審請求審が東京高裁で続いている。

それだけに、ジャーナリズムの根幹にかかわる取材の自由と取材の正当性が問われた中、北海道新聞は、記者逮捕に際して、もっと敏感に反応してもよかったのではないだろうか。今回の事件における腰の引け方は、ほかに後ろめたいことがあったのか、あるいは警察に弱みを握られていたのか、と勘繰られかねない。

結果として、入社まもない試用期間中の新人記者を守る姿勢を示さず「見殺し」にしたことになり、しかも、北海道新聞だけが実名で報道したことで「さらし者」にする結果ともなってしまった。今後、当の女性記者が引き続き北海道新聞の記者として活動していけるのか、心配する声が聞こえてくる。

カメラを持って歩く人
写真=iStock.com/Motortion
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どちらに非があるかの議論と「逮捕の是非」の議論は別モノ

そして、事件から2週間以上も過ぎて、北海道新聞は7月7日付け朝刊にようやく「社内調査報告」と題する検証記事を掲載した。

これを受けて、ネットを中心に、さまざまな角度から論評が加えられたが、大半は厳しい評価で、好意的な見解を見つけるのは容易ではなかった。

まず指摘されたのは、記者逮捕という重大事に対し、北海道新聞としての見解を明確に示さなかったことだ。

「不当逮捕」なのか、それとも「まっとうな逮捕」なのか、世評が割れる中で、報道機関としての立ち位置を明らかにすることが求められていたはずだが、「調査報告」は北海道新聞の問題点ばかり列挙し、事実上、非を認めたような形で終わった。

だが、この場合、どちらに非があるかということと、このケースでの「逮捕の是非」とは分けて考えるべきではないだろうか。

また、「調査報告」の大半は事件当時の状況説明に割かれ、逮捕後についてはほとんど触れていないため、消化不良の感は否めない。