われわれの人生にはどんな意味があるのか。平凡な人間はなにを遺すことができるのか。1894年、思想家・内村鑑三は「後世への最大遺物」というテーマで若者に向けて自身の考えを説いている。お金、事業、文学、思想よりも大切なものとはなにか。講演録の現代語訳をお届けしよう――。

※本稿は、内村鑑三、解説=佐藤優『人生、何を成したかよりどう生きるか』(文響社)の一部を再編集したものです。

ノートパソコンを使用する女性の手元
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もっとも尊い遺物とは資産でも知識でもない

資産家にも、事業家にもなれず、本も書けず、教えることもできなければ、役に立たない平凡な人間として、何も遺さずに消えてしまうのでしょうか。

陸放翁(中国・南宋の詩人)が「我死骨即朽 青史亦無名」(私が死んで骨がぼろぼろになっても、私の名前は歴史には残らない)と嘆いたように、私も時々絶望しそうになります。けれども、今度こそ、本当に誰にでも遺すことのできるものがあります。お金も事業も文学も思想も、本当の「最大遺物」ということはできません。

なぜなら、誰もが遺せるものではなく、しかも遺した結果が害になることもあるからです。昨日もお話ししましたが、お金は有効に使われなければ害になります。クロムウェルやリビングストンがしたことは有益でしたが、植民地政策につながるなど、マイナス面もある事業だったということもできます。本を書いても、読む人次第で、よい影響だけを与えられるとは限りません。そういうものは最大遺物とは呼べません。

では最大遺物とは何でしょうか。

後世に誰でも遺せて、有益で害にならないものは、勇ましくて高尚な人の一生です。これが本当の遺物ではないかと思います。「世の中は悪魔ではなく、神が支配するものである。失望ではなく希望があるのが世の中である。悲しみではなく喜びに満ちた世の中である」と信じて生きていくことなら、誰にでもできます。今までの偉人の事業や文学者の遺した本は、偉大ですが、その人の一生に比べれば価値が小さいのではないでしょうか。