生き方自体を問われている気がする

価値ある音楽でも、必ずしも金銭的な価値に交換できるとは限らない。利潤を追求する社会の中で、“何らかの価値”が見落とされているのではないだろうか? その形にならない、表現に曰く言い難い価値こそ、人は『文化』と呼んできたのではないだろうか?

「今後、音楽をどういうものとして考えるかは、それぞれに問われるかもしれない。僕はたとえ商売にならなくても音楽はやめません。これでお金が稼げなくなっても、別のことをしながらでも、やりたいもの、それが『音楽』だから。逆に考えると、そういう作品やバンドしか生き残れないし、やる意味がないのかもしれない。コンサートでお金をもうけなきゃ、僕は音楽をやめますという人はやめればいいじゃんとさえ思います。音楽を続ける動機はそういうことじゃないはずですから」

新聞でコラムの連載を長年続け、政治・社会・事件・環境など多様な論点にアーティストとして向き合ってきた後藤の関心は、音楽という枠を超え「人間としての生き方」にも及ぶ。

「いま、生き方自体を問われている気がするんです。暮らし方の問題。パンデミックが起きるような暮らしを人類がしている以上、繰り返し起こることだと思います。遅かれ早かれ訪れた問題でもあるから、こうした暮らしっぷりが果たしていいのかどうか。それを考えなければならない、非常に大きな問題であり、本質でもあります」

届かない「声」と「音」に耳を傾ける社会であってほしい

「安全」と「安心」という2つの言葉は、同じような語感でもその意味が全く違う。仮に国やライブハウスが「安全です」と宣言しても、観客が本当の意味で「安心して」通えるまでには、相当の時間を要するかもしれない。

2003年のデビューからアジカンの音楽は一貫して、心の内側を投影したような内省的メッセージから、打って変わって能動的な力強さまでも表現してきた。その作品を振り返ると、“閉塞感のある世界からどう突き抜けるか?” という問いかけが、消えそうで消えないマジックペンで書かれたように、くっきりと残されていることに気付かされる。

『「暗いね」って君が嘆くような時代なんて もう僕らで終わりにしよう』(『さよならロストジェネレーション』2010年)

生のライブと違い配信では決して「届かない音」
苦しいともがいても地下空間から「届かない声」

コロナで誰も彼もが疲弊し、危殆きたいに瀕するこの世界において、たとえ小さなものだとしても、届かない「声」と「音」に耳を傾け、掻き消されることがない社会であることをねがう。いつかきっとまた、ライブハウスで笑いあえる、その日が来るまで。

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