ビジネスを「アート」として捉える

このような枠組みを前提にした取り組みを続けている限り、アートはやがて、かつてもてはやされ、やがて弊履を捨てるようにして忘れ去られた数多くの経営理論やメソッドと同じように、ビジネス文脈での流行スキルの一つとして消費されて終わることになるだけだと思います。

アーティスト
写真=iStock.com/gorodenkoff
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根本的にそれは違うだろう、と思うんですね。本質的に、いま私たちに求められているのは、ビジネスそのものをアートプロジェクトとして捉えるという考え方、つまり「Business as Art」という考え方だと思います。

文明化があまねく行き渡り、すでに物質的な問題が解消された高原の社会において、新しい価値をもつことになるのは、私たちの社会を「生きるに値するものに変えていく」ということのはずです。そして、そのような営みの代表がアートであり文化創造であると考えれば、これからの高原社会におけるビジネスはすべからく、私たちの社会をより豊かなものにするために、各人がイニシアチブをとって始めたアートプロジェクトのようにならなくてはいけないと思うのです。

わざわざ「CSV」を掲げる状況でいいのか

ボイスが「社会彫刻」という概念を唱えたのは1980年代のことですが、それから40年の時を経て、やっと、誰もがアーティストとして社会の建設に携わることが求められる時代がきた、ということです。

これはまた、CSV=Creating Social Valueということが、そこかしこで喧しく言われるようになったこととも関連しています。私自身はもちろん、CSVという考え方には賛同しますが、逆に言えば、わざわざ「Creating Social Value=社会的価値の創造」と断らなければならないほどに、私たちのビジネスは「社会的価値を生み出す活動」とはかけ離れたもの、いやむしろそれはしばしば「DSV=Destroying Social Value=社会的価値の破壊」とでもいうべき活動となってしまっている、ということでもあります。

ビジネスの本義が「社会が抱える課題を解決すること」あるいは「社会をより豊かな場所にすること」だったのだとすれば、あらためて「なぜ、こんなことになってしまったのだろう」ということを考えなくてはいけない時期にきているのではないでしょうか。

すでに何度も確認してきた通り、私たちの世界はすでに経済合理性限界曲線の内側にある物質的問題をほぼ解決し終えた「高原の社会」に達しています。このような「高原の社会」において、これまでに私たちが連綿とやってきた「市場の需要を探査し、それが経済合理性に見合うものかどうか吟味し、コストの範囲内でやれることをやって利益を出す」という営みはすでにゲームとして終了しています。

これからは、アーティストが、自らの衝動に基づいて作品を生み出すのと同じように、各人が、自らの衝動に基づいてビジネスに携わり、社会という作品の彫刻に集合的に関わるアーティストとして生きることが、求められています。